呼んで呼ばれて、親子になる

2015年10月25日年間第30主日
・第1朗読:エレミヤの預言(エレミヤ31・7-9)
・第2朗読:ヘブライ人への手紙(ヘブライ5・1-6)
・福音朗読:マルコによる福音(マルコ10・46-52)

【晴佐久神父様 説教】

 今日は、うれしいうれしい幼児洗礼式。さらに、ひと組の親子の洗礼式(※1)
 赤ちゃんがいっぱい! 多摩教会の信者の平均年齢も、これでチョット下がります。(笑) 今日は主役ですから、赤ちゃんたち、騒いでいいですよ。「ワ〜ン、ワ〜ン 。゚(゚´O`゚)゚。」とね、その声をとどろかせてください。響かせてください。・・・そう、今日はラジオの録音もありますからね、皆さんの声、全国放送ですよ(※2)。(笑)大きな声で、叫んでください。皆さんの声は、神さまを呼んでいる、尊い神の子たちの声だから。その声は、私たちを励まします。

 幼児洗礼式の日は、本当にホッとする日。私は、この洗礼盤が出ていて、洗礼式のためのこの復活のろうそくが出ていると(※3)、ホントにホッとする。・・・安心のシンボルですね。まあ、いつものミサでも、もちろんホッとしますけど、この洗礼盤に水がたたえられて、・・・水の下で明かりがともってるの、分かります? これ、工夫したんですよ。洗礼のお水がね、輝くように。そしてこの復活のろうそくは、私たちに与えられる永遠のいのちの輝き、キリストの光が永遠に輝くシンボルです。
 聖なるミサで洗礼式が行われる。・・・ホッといたします。
 なぜホッとするか。・・・私たちの存在の原点だからです。神さまによって生まれたという、存在の原点だからです。「神が私たちを生んだ」。・・・こんな幸いなことがあるでしょうか。私たちは自ら望んで生まれてきたんじゃない。神さまが望んで、私たちを生んだ。皆さん、そこに座っている一人ひとり、神さまの望みの結果ですよ。神さまの望みの具体的な実現ですよ、皆さん自身が。誰も、「こんな体になりたい」「こんな心になりたい」「こんな人間になりたい」って、望んでそうなったわけじゃない。どんな人であれ、どんな状況であれ、神さまの望みの結果、望みの実現なんです。
 洗礼式なんていうのは、もうまさに、そのシンボル。子どもたちに洗礼を授けるときは、成人洗礼、大人の洗礼も尊いですけれども、いっそう、なんか、洗礼の本質を表しているような気がします。子どもたちはね、だって、自分で努力もしないし、決心もしないし、まして、信仰宣言もしないわけですよね。・・・でもそれ、よくよく考えてみたら、大人の信仰宣言だって、いいかげんなもんですからねえ。立派に信仰宣言しているようでいても、まことの親である神さまから見たら、たぶん、赤ちゃんのつぶやき程度に聞こえると思いますよ。そういうもんじゃないですか?
 その点、幼児洗礼は爽やかですよね。子どもたちは、何も自分で選んでない。何も決心していない。何にも努力していない。でも、神さまが選んで、わが子として、必要な恵み、「恩寵(おんちょう)」を注いでくださる。・・・こんな美しい瞬間、ないですねえ。洗礼式は、それを表している。
 原点ですから、私はホッとします。
 「ああ、もうこれでいいんだ」
 「私は神に望まれて生まれてきたんだから、それでじゅうぶんなんだ」
 どんな状況であれ、これ以上のことを、別に求める必要もないし、ここから、ずり落ちていくこともあり得ないし、神さまがちゃんと、この私を、ご自分のみもとにまで召してくださる。その日を待ち望みつつ、私たちは、ホッとしながらね、安心して、信仰生活を歩みます。

 私の親しい青年に、「ドアを開けるとき、いつも緊張する」っていう人がいるんですけど、まあ、分からないではない。私も、そこまでではないですけれども、そういう恐れが、ちょっとはある。
 「ドアを開ける時、緊張する」って、それは、ドアの向こうに何か怖いことがないだろうか、自分を嫌いな人がいないだろうか、自分は叱られないだろうか、自分は受け入れられるだろうか、そう思うから、ドアノブを握ったその手が、一瞬緊張するんです。で、開けて、「ただいま」なのか、「こんにちは」なのか、ともかくそこに入っていくときに、果たして自分は、ここに入って安全だろうかと、そう思って緊張するっていう・・・。
 でもこれ、人間の本質かもしれないですね。この世に生まれてきて、自分は受け入れられるんだろうか、うまくやってけるんだろうかと、緊張する。人生というドアを開けて入っていくときに、思わず(ひる)む。足がすくむ。・・・人間の本質かもしれない。
 そんな私たちのために、この「洗礼式」があるんですよ。
 今日、この聖堂に入って来たとき、皆さん、緊張しましたか、どうでしょう。・・・ここほど、安心なとこ、ないんですよ。神さまのみもとです。すべてのわが子をそのまま受け入れて、「あなたはわたしの望みだ。わたしの喜びだ。あなたのまことの幸せを、わたしは願っているし、わたしにできないことは何ひとつない」、そう言ってくださる方が、今日ここに私たちを集めてくださり、今、私たちは、ここにおります。洗礼っていうのは、そのシンボルですからねえ。(赤ちゃんの「アアァ〜ェエエ工〜!」という高い声が響く)・・・ああ、いい声だねえ、その声。(笑) 全国放送ですよ、ね。
 ・・・よかったねえ、生まれてきて。泣き声をあげられて。ホントにそう思う。
 神の子よ、よかったね、生まれてきて。
 あなたは愛されるために生まれてきたし、そして、あなたは今、「洗礼」という最高のしるしで、その愛の恵みを、特別に神さまから頂こうとしております。感謝、感謝ですね。

 バルティマイっていう盲人が、イエスさまを呼びます(※4)。「イエスさま〜!!」って呼びます(マルコ10:47、48)。するとイエスさまが、「あの男を呼んで来なさい」って呼びます(マルコ10:49)
 昨日、この聖書を読んでて気づいたんですけど、イエスが立ち止まって、「あの男を呼んで(・ ・ ・)来い」って言うと、人々が盲人を呼んで(・ ・ ・)、そして、「安心しなさい。立ちなさい。お呼び(・ ・ ・)だ」って、「呼ぶ」っていう言葉が、三つ続くんですねえ(cf.マルコ10:49)
 ・・・「呼んで来なさい」って言うと、人々が盲人を呼んで、そして、「立ちなさい。お呼びだ」と。
 バルティマイが、イエスさまを呼びます。「イエスさま〜!!」と。で、イエスさまは、今度、バルティマイを呼びます。この、「呼んで、呼ばれて」っていう関係、これが神さまと人間の関係の、基本中の基本ですね。
 ・・・「呼び合う」
 恋人でも、親子でも、「呼び合う」「呼ぶ」っていうことは、そのあなたを必要としてるっていうことですし、「呼ばれる」っていうことは、まあ、いわば、その人から愛されてるっていうことですよね。私たちが「呼び合う」っていう行為は、そんな尊い行為です。
 「呼んで、呼ばれて」、そして、関係が深まっていくんですね。「呼んで、呼ばれて」親子になっていく。「呼んで、呼ばれて」恋人になっていく。「呼び合う」というこの尊い行為を、神さまと人間の間で、私たちは繰り返します。

 でも、それでいうなら、先に呼ぶのは、神さまの方でしょうね。ちょうど、生まれた子どもを、お母さんが最初に呼ぶように、まず、親が子どもを呼ぶ。これが基本です。
 考えてみてください。皆さんも自分が最初に呼ばれたときっていうのがあるわけでしょ? (受洗者の親に聞く)お宅は、子どもを名付けたのは、お母さんなの? お父さん? お母さんね。ああ、そう。あ、そちらはパパ? お姉さんの方はパパが付けて、下はママが付けたってことのようです。・・・いずれにせよ、その名を、最初に呼んだときっていうのが、当然あるわけですよね。
 美しい瞬間です。親が子どもの名前を最初に呼ぶとき。ああ、自分にもあったんだなあ・・・って思う。そりゃあもちろん、自分では覚えていないけれど。
 ぼくは、「昌英(まさひで)」っていう名前が、ずっとあんまり好きじゃなかった。ちょっと古風でしょ? 「昌英」ってね、お(さむらい)さんだか何だかって感じで。もっと、こう、「ジュン」とかね、(笑) そんなのがよかったな〜って思ってたんだけれど、なんかね、最近は好き。
 「晴佐久(はれさく)」も、あんまり好きじゃなかった。面倒くさい名前だなあ・・・と。説明するのも面倒くさいし、これまた古風っていうか、確かにちょっとややこしい。でも、最近は好き。
 っていうのは、本を書いてるせいもあって、最近次々と、何人からも似たようなこと言われたんです。「晴佐久神父さんの本を見ると、『晴佐久昌英』って著者の名前が書いてある。その名前を見ただけで幸せになる」って。「晴れる」っていう字が、いいらしい。「晴」って字がピカッと光っていて、その後に、「佐久昌英」っていう、この、なんですかね、そんな漢字の並び見てるだけで、幸せな気持ちになるって。・・・名前を見ただけで幸せになってくれるなんて、うれしいじゃないですか。「どうぞ好きなだけ見てください」って感じですよねえ。
 たぶん、「晴佐久昌英」という名前で、私、福音、いっぱい語ってきましたから、この名前の向こうに、ちょっとこう、福音がチラッと見えるような気持ちになってくれるっていう、そういうことなんだろうなって思うと、誇らしいですね、この「晴佐久昌英」っていう名前。
 もちろん私が立派なんじゃないですよ。この私を望んでくださった方、その方によって、ここに私が存在し、その私を通して神が働く。もう、それはすべてのことが、神のみ(わざ)なわけですから。いいも悪いもない。ともかく、神さまが、この私を存在させた。その私を通して、何かいいことをしてくださっている。そのしるしが、この名前だと思うと、最近、好きですね。
 ・・・「晴佐久昌英」、いいじゃないですか。
 先週、おかげさまで、58歳になりました。58年前のある日、私の父が、私の母が、最初に私を呼んだときっていうのがあるわけですね。
 「昌英 ^^」
 ・・・うれしいねえ。そのとき、私は特別な存在になったんですよ。「呼ばれる存在」に。「昌英、昌英、おお、よし、よし。いい子だ、いい子だ。ああ、泣いた、泣いた〜♡」ってね。「泣いた、泣いた」って言って笑うんですよね、大人って。でもそれは、泣こうがわめこうが、「昌英、私はお前を愛しているよ。泣いているお前を幸せにするよ。お前は生まれてきてよかったんだよ」って、そんな思いが、この「昌英」の呼びかけにね、込められているから。
 幸いなる、最初の「ひと呼び」・・・。

 イエスさまが、「あの男を呼んで来なさい」って言う。「お呼びだ」って聞いて、このバルティマイ、躍り上がって喜びました(cf.マルコ10:50)。 呼ばれただけで、もう救いが訪れてるんですね。まだ治ってないんですよ、目は見えるようになってないんですけど、呼ばれた段階で、もう救いが始まってるんです。
 「呼んで、呼ばれた」、その関係において、もうバルティマイは救われました。
 「お呼びだ」って聞いて、盲人は上着を脱ぎ捨てて、イエスのところに来た(cf.マルコ10:50)。
 物乞いをしている人って、上着が唯一の財産でしょう? それが寝床でもあり、寒い時にはすべて守ってくれる家でもあり。でも、もう、イエスさまに呼ばれたら、それすらも、いらなくなっちゃったんですよ。脱ぎ捨てて、イエスのところに連れてこられます。
 ・・・イエスさまに、呼ばれる。
 福音書の癒やしの物語で、名前がちゃんと載ってるって、珍しいんですよ。・・・バルティマイ(cf.マルコ10:46)
 癒やしの物語で、「イエスよ」ってイエスの名前を呼ぶのも珍しいんですよ(cf.マルコ10:47)。マルコでは唯一。
 ・・・「呼んで、呼ばれる」関係。そうして、そこに救いが実現いたします。皆さんのことですよ、呼ばれてるんです。神さまから、呼ばれてるんですよ。皆さんが生まれる前から、今も、そしてやがて、天に生まれていったときに・・・。天の父から、私たちは呼ばれて、この世に生まれてきたし、今も呼ばれているし、やがて、面と向かって呼んでくださる日が来る。なんと幸いな神の子たち!
 私たちも、お呼びいたします。・・・「イエスさま!」

 先週、失楽園の話をしましたけれど(※5)、あの話で、神さまがアダムを「呼ぶ」シーンがあるんですよね。先週、お話しましたでしょ?
 「罪の本質は、恐れにある」と。
 アダムが、木の実を食べたことが罪なんじゃない。そんなのはもう、赤ちゃんのいたずらみたいなもん。「ダメよ」って言ってるのに、やっちゃうじゃないですか、人間って。・・・で、食べちゃう。食べちゃっても、神さまが、「コラ!」って言ったら、「ごめんなさ〜い、もうしませ〜ん」って言ったら、「まったく〜。しょうがない、木の実に手が届かないように、フェンスでもつけておこうか」とかね、そういうやり取りが普通でしょ?
 アダムと神さまの間で、何が問題だったのかっていうと、食べちゃいけないっていう木の実を食べたことじゃない。食べた後で、アダムが、隠れたことです。神さまを避けて(cf.創3:8)。そこが罪なんです。神を恐れたことが。
 「ああ、食べちゃった。こんな自分は赦されないだろう。なんてことをしちゃったんだ、こんな自分はダメな自分だ。こんな自分は不幸になるだろう。きっと、滅ぼされるだろう」
 アダムは怖くなって、神のみ顔を避けて、木の間に隠れる。
 神さまは、アダムを呼びます。
 「アダム、どこにいるのか」
 アダムは隠れて答えます。
 「神さま、私はあなたを恐れて、隠れております。私は、あなたの前に出ていくことができません。裸ですから」、そう答える。
 ・・・「裸ですから」って言うけど、ずっと「裸」だったんだよ、アダム。もともと楽園で、神さまのみ前でも裸だったんだから。ところが、「裸だ」ということに気づき、「裸じゃいけない」と思い込み、「裸の自分なんかは神さまのみ前には出ていけない」と思っちゃった。・・・それが「罪」なんです。
 「裸である」ことは、罪じゃない。「裸であるから、神さま、あなたのみ前にふさわしい者ではありません」って思うことが罪なんです。それは、神の愛を疑うこと。神を(けが)すことです。
 木の実を食べたことが罪じゃない。「神は、こんな私をゆるさないだろう」と思ったことが罪なんです。
 神さまは、アダムを呼びます、「アダム、どこにいるのか」と。
 ・・・皆さんは、恐れてはいけません。神さまは、皆さんを呼んでおられますが、それは、愛の呼び声です。安心して、信頼して、「どうぞ、私はここにおります。こんな私です。逃げも隠れもいたしません。この私の全部が、あなたの目の前で、丸裸で、存在しております。しかし、この私を、あなたは愛してくださる。受け入れてくださる。赦して、祝福して、永遠なる命にまで導いてくださる。私は、それを信じます」と、神さまのみ前で、私たちは、そう答えます。・・・それが「楽園」でしょう。それこそが楽園。失楽園をした私たちが、戻るべき所は、そこ。(赤ちゃんのむずがる泣き声が大きくなる)

 さあ、むずむず言ってるから、幼児洗礼をいたしましょうね。(笑)
 今、幼児洗礼の始めに、神父はね、子どもたち、あなたたちの名前を呼びますよ。はっきりと呼びますよ。「はい」と答え・・・られないですね、(笑) あなたたちは。だから、親が代わりに答えるんですけれども、「呼んで、呼ばれて」、神と神の子は、楽園に入ります。
 それでは、幼児洗礼をいたします。名前を呼ばれた方は、その場にお立ちください。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:「今日は、うれしいうれしい幼児洗礼式。さらに、ひと組の親子の洗礼式」
この日、カトリック多摩教会では、3人の幼児と、お母さまとお嬢さんの母娘が、洗礼の恵みに与った。ぜひ、下の写真それぞれをクリックし、拡大してご覧ください。

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※2:「ラジオの録音もありますからね、皆さんの声、全国放送ですよ」(既出)
 晴佐久神父の説教が、FEBC(キリスト教放送局 日本FEBC)で放送されることが決まり、今年(2015年)の7月から、録音が始まった。放送は、来年春以降の予定。
(参考)
・ 「全国の皆さん、お待たせしました」(「福音の村」2015年7月5日説教)
・ 「事件はもう解決済み」(「福音の村」2015年10月18日説教)
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※3:「洗礼盤」と「復活のろうそく」
「洗礼盤」と「復活のろうそく」「洗礼盤」 「復活のろうそく」
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※4:「バルティマイっていう盲人が、イエスさまを呼びます」
本日(2015年10月25日〈年間第30主日〉の福音朗読箇所)
 マルコによる福音書10章46〜52節。
  〈小見出し:「盲人バルティマイをいやす」〉
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※5:「先週、失楽園の話をしましたけれど」
(参考)
・「事件はもう解決済み」(「福音の村」2015年10月18日説教)
  >>> 説教中盤、上から4段落目(この辺)をお読みください。
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2015年10月25日 (日) 録音/2015年11月1日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英