天国のフェイスブック

2013年2月24日 四旬節第2主日
・第1朗読:創世記(創世記15・5-12,17-18)
・第2朗読:使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ3・17〜4・1)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ9・28b-36)

【晴佐久神父様 説教】

 この、土曜夜のミサに来られた皆さん、教会に入ってくるとき、いつもと様子が違っているのに気がつきましたか?
 ホントに? 気づかなかった? 昨日の夜の入門講座でも同じ質問をして、「何も気づかなかった人は?」って聞いたら、半数以上の人が「何のことですか?」って顔で、手を挙げたんですよ。今もまさに、「何のこと?」って思ってる人、この中にいるんじゃないですかねえ。毎週来てる方でしたら、違いが分かると思うんですけど。
 何の話かというと、数日前に工事をして、教会前の広場に外灯を9本立てたんです。夜はあまりに暗かったんで。教会前、先週に比べてすごく明るくなってるんですよ。ほら、「え〜、気づかなかった!」っていう顔をしてる人が結構いますね。(笑)
 昼間でも結構、新しい外灯立てたら目立つじゃないですか、何本も立てたわけですし。立てたのは当教会の信徒ですけれども、工事してから、「いや〜、これちょっと目立つかなあ、やっちゃったかな」みたいなことを言うんで、私が「いや、最初は違和感あっても、すぐに見慣れますよ。それほど気にならないんじゃないですか?」とかフォローしたんですけど、そんな心配全然なかった。むしろみんな、全然気づかない。
 私なんかは結構、物見るの好きというか、デザインやってましたし、デッサンなんかもやりますし、観察するクセがあって、割と敏感に気づく方なんで、「確かに最初は気になるかもね」なんて話をしてたんですけど、こうやって聞いてみたら、みんな「何のこと?」ですからね。要するに、みんな、見てるようで見てないんですよ。気づかない。
 今日お帰りの節は、ぜひ見てくださいね。聖堂前の階段の所、煌々(こうこう)と明るくしましたし、オアシス広場のベンチの所も明るく照らしましたし、それから教会入り口の所に、ダウンライトを、「ここから教会ですよ」っていう感じで(とも)しました。おかげで、遠くから見ても、教会がなにか暖か〜い感じで、「皆さん、こちらへどうぞ♪」って言っているかのようで、いい感じになったと思う。

 そんなわけでまあ、言いたいことが一つ。私たちは、「見てるようで見ていない」。・・・見てるようで、全然見ていない。
 たとえば、いっつも猫とか犬とか見てるでしょうけど、じゃあ「犬の絵を()いて」「猫の絵を描いて」って言うと、もっのすごく下手な絵しか描けなかったりしますよね。それを笑いものにするっていう企画の番組までありますよ。「飛行機描いて」って言うと、「え、飛行機? こんなんだったかな?」って、全然描けない。いっつも本物を見てるのにね、いざ描いてみると描けない。・・・見てるようで見ていない。
 この世界はですね、もうホントに栄光の世界ですし、神さまがおつくりになった素晴らしい世の中として、大自然にしても、愛する人の顔にしても、ありとあらゆるものが確かに存在して美しく輝いているんだけれど、それらに包まれていながら、それを私たちは、ぜ〜んぜん見てないんだって気づくべきですよ。
 夕焼け見てね、「ああ、きれいだな〜」って思う。よくあることですよね。でも、さあ、それじゃ夕焼けをどれくらい見ますか? 「ああ、夕焼けだ」って、だいたい0.5秒くらい見ますかね。立ち止まって5秒見る人って、なかなかないですよ。5分見続ける人がいたら、「だいじょうぶ? この人」って感じになっちゃう。でも、夕焼けっていうものは、移ろうんです。焼け始めがあり、焼け終わりがある。美しいです。10分は必要です。
 私、学生の頃、「夕焼け博士」と呼ばれたこともあってですね、「あの1973年何月何日の夕焼け、あれはすごかった」とか、そんな話をよくしたもんです。空が大好きだったんですよ、特に入道雲と夕焼けが。ましてこの二つが重なれば、もうパーフェクト。頂が炎のように燃え上がる入道雲なんて、見惚れるように眺めたり。でも、道行く人はそんなの誰も見てないから、もったいなくって、「ねえ、ほら! すごいですね」とかって、声掛けたくなったのをよく覚えてます。そんなことしたら「変な人」だから、声掛けられませんけど。・・・でも、もったいないでしょう? これほど素晴らしいのに、驚くほど、みんな見てない。
 世界は美しい。・・・神の国が、まさにここに始まっているし、ちゃんと見れば、目の前で実現してるんですよ。
 「イヤなやつ」なんて簡単に言うけれど、よくよく見たら素晴らしい神の子なんです。「なんだこんなこと」って無視するけれど、よくよく見たら天国の入り口なんですよ。・・・見ていない。みんな全然見ていない。
 見ていないから、感謝も賛美もない。目を覆い、耳は塞ぎ、自分の頭の中の考えだけで生きているから、神の(わざ)の素晴らしさに敬意も表さないし、こんな素晴らしい世界に生きているという喜びも感じられていない。まして、この世界が、今まさに素晴らしい神の国に変わりつつあるんだっていう、その予兆を見ていないから、すぐに諦めて、すぐに絶望してしまって、神さまがなさっておられる素晴らしい創造のみ業にふさわしい賛美と感謝を全然捧げていないと、私は思う。

 今日の福音書、「主の変容」という出来事ですけど、この出来事の本質は何かといえば、イエスさまが天の栄光をチラリと見せてくれてるってことなんです。ホントは、この世界は天の栄光に満ち満ちているのに、みんなそれが見えていないから、「もうっ、しょうがないなあ・・・」って感じで、愛する弟子たちに、ちゃんと見せてくれた。天を一瞬ね。
 でも、ホントを言えば、この世界を見れば、天の栄光を感ずるはずですし、天の喜びを受け止められるはずなんです。・・・なんだけど、なかなか私たち鈍感なんで、それでイエスさまはこの世に来られ、この弟子たちには、特別サービスでチラッと見せてくれた。
 お手元の聖書と典礼の表紙絵(注1)がありますでしょ? 青い丸が真ん中にありますでしょ? それがまあ、「天」ですね。この青い丸の所ね。そこにイエスさまとモーセとエリヤがいるわけで、そこだけ色が変わっている。これ、その向こうが天なんですよ。
 イエスさまがこの世にありながら、天をチラッと見せてくれた。この絵では、この世に穴が()いて、その向こうの天が「ちょこっと」見えてるんです。
 でも、見えてるのはちょこっとでも、天自体は、神のおられる所、復活の主がおられる世界ですから、「ちょこっと」あるようなもんじゃない。砂漠の中にオアシスがちょこっとある、みたいな話じゃなくて、実はもう、周囲ぜんぶ森林なんです。全部天なんです。その天の中にいながら、われわれがちゃんと見ていない。目閉ざして、耳塞いで、周囲の森に豊かな水が流れているのに、「喉乾いた、喉乾いた」って言っている、そんな感じです。
 だからこの絵も、その丸いとこだけが天なんじゃなくって、実は周囲全部天で、穴のところだけ、向こうの天が見えてるってイメージです。たとえば大きな風船の中に超高速カメラを入れて、針で穴をあけると、はじめは小さな穴が開いて、その穴が大きくなって、最後にパアッとぜんぶ開くんじゃないですか。この絵の丸が、その小さな穴です。
 まん丸い羊かん知ってます? ビー玉みたいに球形で、ゴムで包まれてる羊かん。見たことない? ゴムでピッチリ包んであって、爪ようじでプツッて羊かんを刺すと、ゴムがクルッて取れるってのがあるけど、あれの内側から見たような感じ。
 われわれの周りはぜんぶ天なんです。世界は天の内にあって、イエスさまがちらっとね、窓を開けてその向こうを見せてくれてるような感じ。・・・あくまでもイメージの話ですよ。でも、そんな感じだってことを、分かっていただきたい。
 ぼくらは、目に見えるこの世界がすべてだと思い込んでる。天があるとしても、どこか遠くにあるなんて思ってる。そうじゃない。本来、すべてが天であるにもかかわらず、われわれが耳を塞ぎ、目を閉ざして、天に気づかずにこの世だけを生きているんです。
  教会の入り口をいくらピカピカに明るく照らしても、全然気がつかずに、スーッと通り過ぎてくるでしょう? ちゃんと見ていないんです。ぼくらの感覚とか認識って、ホンットに貧しいですよ。もっと魂の感覚、霊的な認識でね、天の栄光をいっつも身近に感じていられたら、ホントに豊かになりますよ、人生。
 この世の感覚だけで「暗い」とかって嘆くんじゃなくて、その暗さも実は、栄光の明るさのうちにある暗さなんだとか、そういう、いつも天に目覚めている感性、喜びこそが、何よりの救いになるんです。
 この風船のゴムの、内側だけ見ているんでは、そこには真の救いがないので、ぼくらはいつも「あれもこれも足りないね〜」と言い、「どうせ、オレなんか」と言い、「これからどうなるんだろう」って悩んでる。でもそれは内側の世界だけの話であって、内側から風船をパンッて割ったら、永遠で、完全で、豊かな神の世界がすぐそこにあるんですよ。すぐそこに。
 イエスさまが、ペトロとヤコブとヨハネを高い山に連れてってちらりと見せてくれた、その天。その後イエスは、十字架という爪ようじで、バンッとすべてを割って、復活という天を完全に見せてくれたんです。弟子たちは、その主の復活を体験しました。
 それは単にイエスがよみがえったっていう話じゃない。世界がよみがえっちゃった。この私が完全によみがえっちゃった。まったく新しい世界に誕生しちゃった。・・・そういう究極の出来事、それが「主の復活」です。今日読んだところは、ちょっと何て言うんでしょうねえ、それの先取りというか、練習みたいな感じ。
 弟子たちを教育してるんですね、イエスさまが。実際、弟子たちは十字架の絶望の後、「復活」という天を仰いで、「すべてが復活の栄光に向かってるんだ」という真理を知ることになる。そうして、未だ闇の中に閉じこもって、目を閉ざし、耳を塞いでいる人たちに、「その手をどけろ」と、「この世界は神さまの栄光の世界なんだ」と、「あなたは祝福された存在なんだ」と、「みんな、すでにちゃんと救いに与ってるんだ」と告げるために出発する。
 結局は、あなたがそれを知らないだけ、怯えているだけ。悪のささやきに邪魔されて、気づかないでいるだけ。もったいない話でしょ?

 さっきまで、カテドラルで、シグニス・ジャパンのインターネットセミナーっていうのがあって、私は顧問司祭として挨拶したんですが、今日のテーマが「Facebook(フェイスブック)」だったんですよ。ソーシャル・ネットワーク・サービスの。
 で、幸田司教さんがね、去年からフェイスブック始めたと(注2)、いろんな体験を話してくれました。今の時代に、フェイスブックを通じて、どのように福音に寄与するか、教会がどうやって、このフェイスブックっていうツールによってね、より一層豊かで福音的な人間関係をつくり出せるか、みたいなことについて話してくださったんです。
 司教さん、頑張っていらっしゃいましたよ。最初は恐る恐る始めて、「承認してくれ」っていうのを、「はい、はい」って受け入れてたら、何だかたくさん友達が増えちゃって、わけ分からない話ばっかりになって収拾つかなくなったっていう失敗談から始まって、でもその後次第に洗練された付き合い方に改め、今では、フェイスブックをなかなか利用できない人とか、いろんな事情でそういうコンタクトができないとかいう、いうなればネットの弱者たちもちゃんと福音的な出会いができるようなフェイスブックの使い方について考え、様々な工夫をしているというお話しもありました。
 さすがですね。キリスト教って、必ずそういう、一番弱いところに焦点当てますから、当然、司教はそういうこと考えるわけですよ。

 ちなみにこのフェイスブックの合言葉は「いつでも、どこでも、だれかとつながる」ですよね。
 人は必ず誰かとつながりたいっていう欲求を持ってますから、そしてみんな寂しいから、いつでもどこでも友達とつながれるってのは、すごいことです。誰かが今こんなこと考えてるって知りたいとか、自分がこんなことを体験してますって知ってもらいたいとか、そういう欲求を満たすツールとして、多くの人が使って、もう10億人だっていうからすごいですよね。すごいプラットホームですよ。10億人が使っているフェイスブック。
 この、いつでも、どこでも、誰かとつながりたいっていう欲求、よくよく考えてみたら、その欲求自体、神様が与えたもんですよねえ。・・・「いつでも、どこでも、誰かとつながっていたい」。人間の中に、そういう欲求があって、それを満たすべく、まあ、いろんなツールがあるわけですけど、私が思うにですね、キリスト教って、基本的にその欲求に応える力を持っているし、いつでも、どこでも、ちゃんと誰かとつながれるような、強大なプラットホームを、もう持ってるんですよね。しかも、ネットの空間どころじゃなく、実際の、フェイス・ツー・フェイスのつながりとして。そういう人のつながりとしての「教会」っていうもののすごさを知ってほしいですね。
 私たちはネットワーク空間で、いつでも、どこでも、誰かとつながりたい。それは悪いことじゃない。つながったらいいんだけれど、やっぱりその先に、本当の出会い、天における一致の世界があるはずです。こうして今、皆さんと同じ空間にいて、こうして身振り手振りで福音を伝え合い、同じ空気を吸って、共に喜ぶために、「教会」っていうものは、ひじょ〜に長い歴史の中で、人と人とがちゃんとつながるプラットホームづくりを、ず〜っとやってきてるんですよ。それは、天における一致に向かってるんです。

 コンピューターの世界で、「ユビキタス」って言われますでしょ? 「いつでも、どこでも、誰とでも」つながるっていう概念ですね。
 最近はよく「ユビキタス社会」なんて言われます。コンピューターがホントはつないでいるんだけれども、それを感じさせないほどに、いつでも、どこでも、だれでもが、ちゃんと様々なコンタクトが出来るインフラのある社会になっていくんでしょう。
 この「ユビキタス」っていう言葉の語源、知ってます? ラテン語なんですよ。「ユビクエ(Ubique)」って、「遍く(あまねく)」っていう意味です。「普遍」ですね。いつでも、どこでも通用するってことで、別に特別な言葉じゃない。
 だけど「ユビキタス(ubiquitous)」っていうと、実は神学用語で、「神の遍在」のことです。神さまはどこにでもおられる。どんな人とでもつながっている。神さまはどんな状況であっても、すべてのことにちゃんとコミットできる。地獄の底までも、神さまと無関係な所はありませんっていうのが、「ユビキタス(ubiquitous)」っていう概念です。
 コンピューター用語で「ユビキタス、ユビキタス」って言うけれど、期せずして神学用語を使っているわけで、何のことはない、世界が目指しているのは、やっぱり、神さまの愛の世界なんですよ。
 神さまは、いつでも私たちと共にある。神さまが、誰と誰であれ、ちゃんとつなぐ。私たちがどれほど困っていても、絶望の底にあっても、どんな状況であっても、いつでもどこでも、神さまとちゃんとつながれる。これが「ユビキタス」なんです。
 科学とかテクノロジーとかが一生懸命開発して、新しい世界をつくっているかのように見えて、実は教会が目指してきたこと、教会が信じていること、教会が「それこそが本当に価値あることだ」と言ってきた世界、すなわち天の栄光の世界を、みんなで追っかけてるっていうことですよ。すべての答えはもう、ちゃんとイエスさまが示してくださってます。

 復活の主、まさに「ユビキタス(ubiquitous)」ですよ。「いつでも、どこでも、誰とでも」、復活の主は共にあってコンタクトできるし、その主とのつながりこそが、この世界を神さまの恵みの世界に変えていく。この天とのつながりの力を私たちは信じていますし、パウロはそのことを、さっき第二朗読で「わたしたちの本国は天にある」って表現していました。美しい言葉ですよね〜。・・・「わたしたちの本国は天にある」。
 皆さん、「日本国民」じゃないんですよ、「天国民」なんです。
 ただ、生まれてすぐこの地上に来ちゃってるんで、本国の記憶がない。でも全員、天国のパスポートはちゃんと持って、この地上に来ております。いつ、どこにいても、どんな状況にあっても、私たちはこの天国の住民なんで、天国の責任者が守ってくれる。
 日本国のパスポートにだって、ちゃんと書いてありますよ。「日本国民として保護してね」とかなんとか。
 パウロは「わたしたちの本国は天にある」と言いました。非常に普遍的な話でしょ? この地上、どこにいても、私たちは、十字架でちょっとつつけば、もうそこに天が開かれているっていうことを体験できます。
 もうちょっと、そういう豊さとか、感性の鋭さとか、「今、ここで神が私を愛している」ということに目覚められる信仰のみずみずしさというものを育てていきましょうよ。
 特に病気のとき、特に争いのとき、特に自分なんて何でもない存在であるかのような気がして虚無感にとらわれるようなとき、天国のフェイスブックとつながっているっていう安心、楽しさが、キリスト教の素晴らしさなんじゃないですか。

 教皇さまがお辞めになって、ミサでベネディクト16世教皇さまのためにお祈りするのは、主日としては最後になります。28日以降、空位になりますので、新教皇が選ばれるまでは、教皇さまのための祈りは、ミサ中省かれます。
 ベネディクト16世教皇さまが、まさに、この激動の時代に、天の普遍性をちゃんと導いてくれたことに心から感謝して、教皇さまのためにお祈りください。
 そして、来週以降は、まさに激動の21世紀を、カトリックという普遍性を、いっそう豊かにしていく、そのような教皇さまが選ばれるようにお祈りいただきたいと思います。


(注1 )「 表紙絵 」
オリエンス宗教研究所『聖書と典礼』(2013年2月24日四旬節第2主日C年)表紙絵解説ページへのリンクが張ってあります。
URL → http://www.oriens.or.jp/st/st130224.html   < 文中へ戻る


(注2 )「 幸田司教フェイスブック 」
幸田和生司教のフェイスブックへのリンクが張ってあります。
URL → https://www.facebook.com/j.k.koda   < 文中へ戻る

2013年2月23日 (土) 録音/2013年3月1日掲載
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