この人は、私よりも優れた者です

【カトリック浅草教会】

2017年12月17日 待降節第3主日
・ 第1朗読:イザヤの預言(イザヤ61・1-2a、10-11)
・ 第2朗読: 使徒パウロのテサロニケの教会への手紙(一テサロニケ5・16-24)
・ 福音朗読: ヨハネによる福音(ヨハネ1・6-8、19-28)

【晴佐久神父様 説教】

 『聖書と典礼』、お手元にありますか? 下に解説が載っておりますでしょう(※1)。今日は待降節第3主日ですけれども、「喜びの主日」(※2)って呼ばれてるんですね。
 待降節や四旬節、主を迎える準備や復活の準備のときは、回心をし、犠牲を捧げるときですから、喜びを控える傾向にあるわけですけど、私たちの悪い癖で、つい、やりすぎるんですよ。「こんなんじゃだめだ」「もっとがんばらなきゃいけない」「いっそう悔い改めないと救われない」、そんな思いにとらわれすぎて、かえって苦しくなっちゃうとしたら、それは違う。本来神さまは、喜ばせるために私たちを生んだんだから。
 回心の日々にあっても、喜びを忘れちゃいけない、どんなにつらいことがあっても、状況が悪くても、いつも喜んでいようっていう、そんな意味で、第3主日には「喜びの主日」っていうのをやるんです。
 ですから今日は、心に新しい喜びをいただきましょう。それが、クリスマスへの何よりの準備になります。特に、今、つらい思いをしている人は、「そんな苦しみの中にこそ、主が来られる!」っていう喜びをね、頂きましょう。

 先ほどから、皆さん、晴佐久神父の祭服を、「あれ?」って思ってご覧になってますけど、きれいでしょう? バラ色の祭服。これ、コスプレじゃないですよ。(笑) 伝統的に、この「喜びの主日」には、バラ色の祭服を着る習慣があるんです(※3)。最近は、そういう習慣も薄れてきてるようで、私も各教会回ってきましたけど、この祭服、どこにもなかったですね。でも、一度は着てみたいものだと思ってたんで、昨日のいやしのミサで何気なくその話をしてたら、たまたま来てたある司祭が、ご自分の祭服を貸してくださったんです。わざわざ今朝、ミサの始まる前に突然、「どうぞこれをお使いください」って現れたんで、びっくりしました。
 本来、待降節は紫色でしょう(※4)? その紫から、斎戒沐浴(さいかいもくよく)(※5)みたいな意味の青みを除くと、この喜びのピンク色になるってわけです。・・・見渡すと、今日はそういう色をお召しの方が多いようにも見えますけど、(笑) 典礼色に合わせて服選びってのもいいんじゃないですか、朝、迷わなくてすむし。「今日は待降節第3主日だから、ピンク着よう」とかって。もっとも男性は、ピンクはちょっと、・・・あっ、そうでもないか、あそこにピンクをお召しの男性がいらっしゃいますね。(笑) いいんじゃないですか、典礼の色を身に着ける習慣。・・・その時々の意味を味わうために。今日でいえば、「喜びを忘れないように」って。

 聖書の朗読も、お気づきでしょうか、第1朗読(※6)でいえば、10節ですね。
 「わたしは主にあって喜び楽しみ わたしの魂はわたしの神にあって喜び踊る」 (イザヤ61:10)
 もちろん、「喜びの主日」だから、こういう個所が選ばれてるんですよ。
 答唱詩編も、それを受けて、聖母マリアの言葉が歌われました(※7)
 「わたしは神をあがめ、わたしの心は神の救いに喜びおどる」(ルカ1:47より/答唱詩編)
 聖母は主イエスを迎えて、その心はただただ、神の救いに喜びおどる。その表現は、イザヤの預言を受けてです。「わたしの魂は私の神にあって喜び踊る」(イザヤ61:10)っていうのを、そのまま受けて、聖母はそう言ってるわけです。
 イザヤの時代、決して民は幸せだったわけじゃない。試練が多かった。苦しんでいた。どれほどつらい日々だったことか。でも、バビロンから解放されて、「今、私は喜ぶんだ」と。
 聖母もね、さまざまな困難のなかを生きていたわけでしょ。でも今、主を宿して、「わたしの心は喜びおどる」。
 第2朗読では、パウロがこう言うんですよ。
 「皆さん、いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、神があなたがたに望んでおられることだ」(cf.一テサ5:16-17)
 試練の日々、なかなか喜べないっていうことも多いですけれども、喜びましょうよ。今日は、浅草教会の献堂30周年をお祝いしているわけですけど、この美しい聖堂も、これを建てるまでには、どれほどの議論、困難、犠牲、そして奉仕があったことか。30年たてば、それもだんだん忘れ去られていきますけれども、私たちが、今日ここで、こうして喜びの主日を迎えていられるのも、後々の喜びのために犠牲を捧げた、そういう方たちのおかげなんですよ。
 キリストの教会は、どれほどたくさんの方の犠牲、奉仕、忍耐、・・・何よりも祈りに支えられてきたことか。私たちは、そういう尊い思いに応えるためにも、今日、試練の中で、小さな喜びの火を灯します。それこそ、「神が、あなたがたに望んでおられること」です。

 今日から、ミサの中で、「私たちの司教、タルチシオ菊地功」と申し上げることになります(※8)
 昨日、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、新大司教の着座式がありました(※9)
 皆さんを司牧する牧者、司教が、新しく与えられました。まさに、「喜び」です。
 私にとっては直属の上司ですから、司教が変わるっていうのは大きな出来事なんですよ。次の司教さまは誰か気になっていたわけですけど、ある日ファックスが入ってね。そこに「菊地功」っていう名前を見たときに、私の心は「(ง°̀ロ°́)งヨッシャ!」っていう感じで喜び踊りました。(笑) 私たちは、ホントに素晴らしい司教さまをお迎えすることになりました。
 何といっても、ず~っと、カリタスで、弱い人、排除された人、傷つけられて、排除されて、見捨てられている人、そんな一人ひとりのために働いてこられた司教さまです。その司教さまが、東京教区を、もてなしの教会、一致の教会、だれも排除せずに受け入れる教会としてくださることを、私は信じますし、喜んでお手伝いしたいと思っているところです。
 着座式のごあいさつで、菊地司教さまが、教皇さまの言葉を引用して、はっきりとおっしゃったことがあります。とても印象的でした。
 「だれひとり排除しない」
 まあ、キリスト教は、そういう宗教ですから、わざわざ言うまでもないことなんだけれども、しかし、現実の教会はそうかというと、ちっともそうじゃない。それこそ、政治の世界でも記憶に新しい、「排除します」っていう宣言が(※10)、(笑) マスコミを(にぎ)わせましたよね。世の中はどこも、排除、排除の話ですけど、せめて教会だけは、「だれひとり排除しない」ところであってほしい。
 みんな、どうして、「排除」するんだろう。・・・排除して、それでいったい、どんな幸せが生まれるのか。むしろ、排除することで不幸せになるって、知らないんじゃないか。
 「排除する」っていうことは、「巡り巡って、自分も排除される」ってことですよ。当たり前のことです。ちょっと世の中が変わり、ちょっと立場が変われば、いつだって自分も排除される側になっちゃう。・・・でしょ? だれも排除しなければ、自分も排除されないんです。お互いに本当の喜びを生きていくために、「だれひとり排除しない」、このシンプルな方針を第一にしていれば、私たちのうちに、神の国の喜びが実現していきますよ。
 献堂30周年のこの聖堂に、こうやって見ると、本当にさまざまな人が座っています。あなたは、なぜここに座っているのか。ここにいられるのか。受け入れてもらったからですね。「本来、排除されたっておかしくないような私なのに、受け入れてもらった」って、そう思ったらいいと思う。「私がここにいるのは、排除されなかったからだ」って、そう気づくべきです。
 「自分が排除されないのと同じように、だれひとり排除しない」、そのような教会共同体を、新司教と共にやっていきましょう。私、ごあいさつを聴いていて、ホントにうれしかった。
 このカードに印刷されている、これが菊地司教の紋章なんですけど(※11)、実は、この紋章の中に、司教のモットーが書かれているんですね。東京教区はこれから、このモットーのもとにやってまいりましょうってことですから、覚えてください。ラテン語でこう書いてあるんですよ。
 「バリエターテ ウニタス」 (VARIETATE UNITAS)
 バリエターテって、ラテン語で、多様性って意味です。バリエーションとか、バラエティーとかの、多様性。さまざまな人々、本当にそれぞれの人が輝いている状態ですね。で、ウニタスは、一致のこと。イタリア語でも、1をウノって言うでしょう。すなわち、「多様性における一致」。
 いろんな人々がそこにいて、みんながひとつになっている。金子みすゞが、「みんなちがって、みんないい」って言いましたけど(※12)、それぞれが、それぞれに多様なんだけど、一つなんだ、と。
 さらには、その一致しているところに、ちょっと変わった人が現れたときに、「あなたはちょっと違うから遠慮してください」って排除しないってことですね。むしろ、「あなたが入ってくれて、私たちの多様性は、より豊かになりました。ようこそ来てくださいました」というのが、「多様性における一致」。
 排除しない。「そうはいっても、あなただけはダメだ」って言わない。もちろん、いろいろな問題や限界がありますから、一緒にやっていくために、いろいろ工夫しなきゃならないことはあります。時には、とりあえず線を引いた方がいいこともあり得ますけれども、線を引いて終わりじゃなくて、その線をどうやったらなくせるかということを、みんなで考えて、さまざまなチャレンジをし続けて、いろいろな工夫を祈りのうちに重ねていきますっていう、その方向性。そのような方向性を明確に示す新司教が与えられたのは、これはもう、まさに今の教会、今の世界に、聖霊の導きがあったとしか言いようがない。

 去っていく岡田司教さまには、私、大変お世話になりました。この岡田司教さまのもとで積み重ねられてきたものが、新司教のもとで花開いていくんでしょう。今回の着座式は、この岡田司教さまの司式だったんですよ。で、この個所を、説教でお話ししたんですね(※13)
 「彼は光ではなく、光について証しをするために来た」(ヨハネ1:8)
 私たちは「光」じゃない。光を浴びる者ですね。・・・私たちは光じゃない。光を浴びて、輝かせる者。とても謙遜な岡田司教さまの思いが、そこに見えました。私は岡田司教さまのもとで17年間お仕えしましたが、もともと、「岡田神父」だったときに神学生として派遣されて、一緒に仕事をし、共に住んだりしたこともあるわけですけど、「こんな謙遜な、こんな誠実な、こんな忍耐強い人、いるだろうか」と思ってました。ともかく、人を受け入れるんですよ。選別しないんです。私、神学生ながら、「自分は神父になっても、ここまでできないな」と思っちゃったくらい。
 そののち、宣教研究所の所長としてお働きになり、福音宣教推進全国会議の中心メンバーにもなって、日本の教会を本当に福音的な教会にしようということで、繰り返しおっしゃっていました、
 「荒れ野のオアシスとなる教会にしよう」と。
 私はそれを感動して受け止めましたし、それを実行しようということで、一司祭として、「荒れ野のオアシス教会」を目指しました。高円寺教会でも、そんな教会を目指しましたし、多摩教会では、教会のスローガンを「荒れ野のオアシス教会を目指して」として、それを7年間、掲げ続けました。「オアシス広場」なんていう広場までつくったりして、ともかく、「受け入れる教会」「みんなをもてなす教会」「そこでイエスに出会って、救いの喜びを感じることのできる教会」を目指しました。
 そして、このたび、新大司教が、「多様性における一致」を目指そう、と。これは、摂理です。
 ですから、浅草教会の皆さん、わざわざスローガンとしては掲げませんが、心の中で、「多様性における一致を目指す」「排除しない教会を目指す」、そういう決心をして、新しい年を始めてまいりましょうと呼び掛けたい。

 昨日の着座式の後、カテドラルの前庭で、岡田司教さまにご挨拶しました。新大司教の周りには、大勢詰め掛けるじゃないですか。みんな、菊地司教に挨拶したいわけで、詰め掛けていくわけですよ。ああいうとき、おばちゃんたち、すごいよね。(笑) もうグイグイ人を押しのけてでも、司教さんのとこに行こうとする。
 そんな中、ふと見ると、岡田司教さまの周りにはだれもいない。というか、二人の人が司教さまとお話ししてて、そのお話が終わりそうだったんで、私、近づいてご挨拶したんです。そのとき、司教さまが、その二人に、私のことを紹介してくれたんですけど、「この人は、私よりも優れた人です」って紹介したんです。・・・もちろん、そんなことがあるはずないですよ。だけど、その謙遜さに私はびっくりしましたし、励まされた。もちろん、私は優れてはいませんけれども、まさに、光ではないけれども、優れた光を受けて、その光を輝かせる者でありたいと思いますから。
 岡田司教さまが、なぜそうおっしゃったか。昨日の第1朗読は、パウロの手紙で、このカードの裏にも載ってるんですね。読みます。ローマ人への手紙の12章4節と5節。
 「わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」
 有名なところです。私たちは体だから、目が手に「いらない」とは言えない、頭が足に「いらない」とは言えない(cf.一コリント12:21)。当たり前です。もし私が、「この小指、いらない」と言って切り捨てたら、自分が痛い。私たち、一つの体なんだから。
 で、この個所は、こう結ばれてるんです。
 「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(ローマ12:10)
 ここが昨日、第1朗読で読まれた。岡田司教さまは、それを受けて、司教さまのところにお礼を言いに来たこの私に、「この人は、私よりも優れた者です」って言ったんです。
 私、ホントに謙遜な司教さまだと思って、胸が熱くなりましたけど、そのとき、「そうか!」って気がついたんです。「これだ」と。排除しない一番の方法は、自分より相手の方が優れていると思うことなんだって。だって、排除するっていうのは、少なくとも自分の方がマシだ、優れてると思うから、排除するわけでしょ。だから、誰に対してでも、「相手を自分よりも優れた者だ」と思えば、この世から排除が消えるんじゃないですか。それこそが、真の喜びを生み出す最高の方法なんじゃないですか。
 そういうチャレンジ、今日一日だけでも、この喜びの主日に試してみましょうよ。今日、何人に会いますかね、これから。その誰に対してでも、「この人は、私よりも優れた者です」と思えますか?
 事実、その相手は、あなたより優れた者なんじゃないですか?
 「岡田司教さま、あなたこそ本当に『優れた者』です。長い間、ありがとうございました」っていう思いと同時に、菊地司教さまのもとで、いっそう、「多様性における一致」「排除しない教会」、そしてなおも、「荒れ野のオアシス教会」を実現してまいりますと、そう決心いたしました。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)

※1:「『聖書と典礼』、お手元にありますか? 下に解説が載っておりますでしょう」
 この日に会衆に配られた『聖書と典礼』欄外には、今日の第1朗読の箇所の説明として、以下のような注釈がある。
===(『聖書と典礼』から)===
 
イザヤ書の第三の部分(56~66章)は、バビロンから解放され、帰国した民に向かって預言したもので、「第三イザヤ」と呼ばれる。この個所では、預言者自身の召命が語られる。救いの訪れを告げるこの個所は、降誕祭を間近にした待降節第3主日(「喜びの主日」とも言われる)の雰囲気をよく表している。 (『聖書と典礼』 p.2-3〈待降節第3主日 B年 2017.12.17〉オリエンス宗教研究所/赤字引用者)
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※2:「喜びの主日」
◎「喜びの主日」 (既出)
 待降節は、「愛と喜びに包まれた待望の時」(『典礼暦年に関する一般原則』39)
 特に、その第3主日は「喜びの主日」(「ガウデーテの日曜日」Gaudete Sunday)と呼ばれ、救い主が、もうすぐそこまで来ておられるという、待ちきれないような喜びを表している。
 典礼色も、通常、待降節で使う紫色ではなく、バラ色を使うこともできる。
 ミサの始まりの「入祭唱」も、「主にあっていつも喜べ(Gaudete in Domino semper)。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる」(フィリピ4・4-5)の言葉が選ばれ、聖書の朗読箇所も、救い主到来の喜びを告げている。
(参考)
・ 『典礼暦年に関する一般原則』(日本カトリック典礼委員会編、カトリック中央協議会、2004)
・ 「C年 待降節第3主日」(ラウダーテ)〔現在B年ですが、C年が、より参考になりました〕
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※3:「伝統的に、この『喜びの主日』には、バラ色の祭服を着る習慣があるんです」
(サンプル画像)
20171217
 他、2015年の教皇フランシスコの画像などは、以前、こちらに掲載しました。また、そのほか、いろいろな喜びの主日の祭服は、こちらをご覧ください。
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※4:「本来、待降節は紫色でしょう?」 (既出)
 司祭が祭儀(ミサ)のときに着用する祭服の色は、「赤」「白」「緑」「紫」などで、典礼暦や、各祝日などの意味を視覚的に表現しており、それに従って変更される。
 降誕祭(クリスマス)を待望する待降節は紫色を用い、その色は、償い、回心、節制、待望(希望)、つつしみなどを意味している。 
 紫色が用いられるのは、待降節のほか、復活祭(イースター)を待望する四旬節や、天に望みをかける死者のための典礼のとき。
 その他の祭服の色や、その意味などは、>こちらに少し説明してありますので、ご興味のある方はご覧ください。
(参考)
・「ローマ・ミサ典礼書の総則 (暫定版) [PDF] (2004年4月8日)
    - p.73 「Ⅳ 祭服」の「346[=308]」祭服の色について
・ 「祭服」(ウィキペディア)
・ 「さまざまなカズラの画像」(Google画像検索)
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※5:「斎戒沐浴」(さいかいもくよく)
 神仏に祈ったり神聖な仕事に従事したりする前に、飲食や行動を慎み、水を浴びて心身を清めること。(「斎戒」は飲食を断つなどの戒を守り、心身を清めること。「沐浴」は水で髪や体などを洗い、身を清めることをいう)
(参考)
・ 「斎戒沐浴」(四字熟語辞典オンライン) など
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※6:「第1朗読」
この日、2017年12月17日(待降節第3主日)の第1朗読箇所は以下のとおり。
 イザヤの預言(イザヤ書)61章1~2a節、10~11節
  〈小見出し:「貧しい者への福音」61章1~11節から抜粋〉
===(聖書参考個所)===
 わたしは主によって喜び楽しみ
 わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。
 主は救いの衣をわたしに着せ
 恵みの晴れ着をまとわせてくださる。
 花婿のように輝きの冠をかぶらせ
 花嫁のように宝石で飾ってくださる。 (イザヤ61:10/赤字引用者)

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※7:「答唱詩編も、それを受けて、聖母マリアの言葉が歌われました」
 「答唱詩編」は、第1朗読の後、その神の言葉を少し味った後に唱えられたり、歌唱されたりする。
 本来、答唱詩編に用いられるのは詩編で、第1朗読に合わせて選ばれ、朗読された神の言葉を味わうことができるように工夫されている。
 ただ、この日は、詩編ではなく、新約のルカ福音書から採用された。この歌は、
 
「イエスを身ごもったマリアがエリザベトを訪問したときに歌った歌で、マリアの歌(マグニフィカト)と呼ばれて愛唱されてきた。救い主を身ごもったマリアの個人的な喜びと賛美に始まるが、次第に、神の救いを待ち望むすべての人の希望に満ちた祈りになっていく (『聖書と典礼』 p.3-4〈待降節第3主日 B年 2017.12.17〉オリエンス宗教研究所/赤字引用者)
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※8:「今日から、ミサの中で、『私たちの司教、タルチシオ菊地功』」申し上げることになります」
 ミサで、説教が終わり、信仰宣言、共同祈願、パンとぶどう酒の奉納と進んだのち、司祭は奉献文を唱えるが、その際、教皇と、所属する教区の司教の名前を挙げて祈る個所がある。
 
「世界に広がるあなたの教会を思い起こし、わたしたちの教皇○○○○、わたしたちの司教○○○○、すべての教役者をはじめ、全教会を愛の完成に導いてください」
 ○○○○の箇所に、現在は教皇「フランシスコ」、そして、カトリック東京教区では、新しく教区大司教となった司教「タルチシオ菊地功」と入ることになる。
(参考)
・ 『ともにささげるミサ 〔ミサ式次第 会衆用〕』(オリエンス宗教研究所、1989年)
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※9:「昨日、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、新大司教の着座式がありました」
 新潟教区司教だった菊地司教は、2017年10月25日に東京教区大司教に任命され、同年12月16日、東京カテドラル聖マリア大聖堂で着座式が行われ、同教区の第9代大司教として就任した。
(参考)
・ 「菊地大司教、東京教区に就任2017/12/16(カトリック中央協議会)
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※10:「それこそ、政治の世界でも記憶に新しい、「排除します」っていう宣言が」
 希望の党代表だった小池百合子東京都知事が、2017年9月29日の記者会見で、衆院選で同党に公認申請する民進党出身者のうち、リベラル派を「排除します」と明言した。「寛容な保守」をうたいながらの、この不用意な発言は、小池氏や希望の党のイメージを一気に悪化させ、流れを大きく変えてしまった。
(参考)
・ 「『リベラル派は排除する』 希望・小池百合子代表が明言2017/9/29(産経ニュース)
・ 「小池知事に『排除』を宣告された、民進党リベラル派の憂鬱2017/9/30(HUFFPOST) 他
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※11:「これが司教の紋章なんですけど」
mark-kikuchi-2菊地司教は、紋章の説明を、こちら(カトリック中央協議会HP)で伝えておられるので、ご一読ください。
 ほか、『日本カトリック司教協議会イヤーブック 2018』p.113(カトリック中央協議会、2017/12/17)などでもお読みいただけます。
 「VARIETATE UNITAS」(多様性における一致)の文字は、下の帯のところに記されています。
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※12:「金子みすゞが、『みんなちがって、みんないい』って言いましたけど」
 金子 みすゞ(1903年〈明治36年〉4月11日 – 1930年〈昭和5年〉3月10日)は、大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍した日本の童謡詩人。
 「みんなちがって、みんないい」は、『私と小鳥と鈴と』という詩の一節。
(参考)
・ 『私と小鳥と鈴と』(「ミニュウのホームページ」個人ブログ)
・ 「金子みすゞ・金澤翔子展」(日本橋三越展示会(2017年5月)のお知らせ。下の方に自筆掲載)
 ほか、たくさんの個人ブログなどで紹介されています。
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※13:「この個所を、説教でお話ししたんですね」
「この個所」は、この日、2017年12月17日(待降節第3主日)の福音朗読箇所のこと。
 ヨハネによる福音(ヨハネによる福音書)1章6~8節、19~28節
  〈小見出し:「言(ことば)が肉となった」「洗礼者ヨハネの証し」から抜粋〉
===(聖書参考個所)===
 
神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 (ヨハネ1:6~9/赤字引用者)
岡田司教さまの説教:「タルチシオ 菊地功大司教着座式説教」(カトリック東京大司教区)
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2017年12月17日(日) 録音/2018年1月11日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英