いわんや毒麦をや

2014年7月20日年間第16主日
・第1朗読:知恵の書(知恵12・13、16-19)
・第2朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ8・26-27)
・福音朗読:マタイによる福音(マタイ13・24-43、または13・24-30)


【晴佐久神父様 説教】

 今日はこの後、コルベ神父さまの映画(※1)を撮られた監督さん(※2)の講演がありますので、ぜひ楽しみにしていただきたいと思います。 このミサに監督さんも来られていますので、本当は、代わってお話をしていただきたいくらいですが。(笑)
 コルベ教会ですからね、ここ(※3)。 で、そもそもは、ここに「コルベ会」(※4)という奉仕グループがあって、素晴らしい働きをしてくださってきたわけですけれども、最近の新しい信者さんの中には、「『コルベ』って何?」という人すら現れ始めました。当教会はね、コルベ神父さまに捧げられている教会であり、コルベ神父さまの天でのお取り次ぎを願っている教会ですから、皆さんにコルベ神父さまのことを改めて知っていただきたいということで、コルベ会が主催して今日の企画となりました。

 でも、皆さん知らないうちに、もうすでにコルベ神父さまにいっぱい守られてるんじゃないですか? おひげもここにあるわけですしね。(※5) ご存じですよね? まさか知らないっていう人はいないでしょう。ここ、神父さまのおひげがあるんですよ。
 この世界にホントにいらした方なんです。日本に布教に来られた方なんです。本当に、聖なる人として、悪の真っただ中で、善を輝かせた方なんです。今、天でどれほどの誉れを受けているか、そして、なお悪の中を生きる私たちに、「それでも善を信じよう」と、どれだけ語りかけているか。
 多摩教会、このコルベ神父さまに、たくさんお世話になっていると思います。
 今日は、特にそのことを思い、また、来月の8月14日、聖コルベの祝日には午前10時からミサがありますから、みんなで祈りましょう。今日のミサくらい大勢、集まっていただきたい(※6)
 8月14日、聖コルベの祝日ですよ。覚えておいてくださいね。
 私たちの教会の誉れです。


 今年、39人受洗いたしましたけれど、そういうことも一つひとつ、コルベ神父さまのお取り次ぎもあってのことじゃないですか?
 このたび、新受洗者の洗礼記念文集(※7)が発行されました。ぜひ、読んでいただきたい。信者ボックスに入っております。ボックスのない方は、カウンターに積んでありますので、お持ち帰りになって読んでいただきたい。これはどんな読み物より、力になり、励みになりますよ。
 だって、これは、すごく身近な人たちのことなんです。どこか遠い世界の話じゃない。昔話でもない。この1年間、私たちの多摩教会で、神さまが働かれた記録。主イエスが共におられた証し。聖なる霊がちゃんと導いてくださっているというしるし。聖コルベが天において、私たちのためにたくさん取り次いでくださったという目に見える証拠。それが、この39人の感想文集、洗礼記念文集にあふれております。
 ちゃんと読んでくださいよ。結構印刷にお金、かかるんですよ、これ。無駄にしないでくださいね。ま・さ・か、雑誌雑紙(ざつがみ)と一緒に、ポンと出したりしないでくださいよ。(笑)こんな素晴らしい文集出している教会、他にありませんから。
 聖なる家族、その一人ひとりが、まさに悪から救われて、今、善なるものに感謝と賛美を捧げている文集。このミサにも、作者がいっぱいます。信仰の家族、仲間です。この場で読んでいただきたいくらいです。入門講座では、本人に読んでいただきましたけど、やっぱり本人の口で読まれると感動します。
 一人ひとりが救われた、その出来事、本人の思い、それはぜんぶ神さまがなさっておられることです。読めば、「へ~っ!」って思うような発見もありますし、ああ、みんな苦しんできたんだな、ホントにつらい思いをしてきたんだな、でも福音に出会ってこんなに喜んでるんだな、っていう現実を目の当たりにすると、信仰の先輩たちも、「もう一回思いを新たにしよう」、そんな気持ちになるんじゃないですか?
 確かに、つらいことはいっぱいある。それを一つひとつ、私たちは乗り越えて生きてきました。でも、考えてみたら、「じゃあ、つらいことが何もなければそれでいいか」っていうと、そういうことでもない。やっぱり、試練の日々はある。これからもあるでしょう。だけどそれが、何かとてつもなく素晴らしいことにちゃんとつながってるという、その信仰によって、私たちは生きてるわけですし、一人の受洗者が、それほどの苦しみから、このように救われてるっていうことを知ることは、私たちにとっても励ましになるんですよ。
 そうして私たちは、改めて思うんです。
 「毒麦の中でも、良い麦を握り締めて生きていこう」と。

 イエスさまは、「毒麦抜くな」って言いました。(cf.マタイ13:29-30)
 これは、とても深~いお言葉だと思いますよ。「毒麦、ない方がいいに決まってる」。・・・ついついそう思う。一見そうです。いろんな悪の問題、罪の問題、ない方がいいに決まってる。でも、じゃあ、まったくそういう「毒」なしの、「もうすでに天国ここにある」っていうだけでいいかっていうと、それは最終的に完成するものであって、今は「敵の仕業(しわざ)(マタイ13:28)で、毒麦付きなんですよ。でも、そんな中で忍耐して、忍耐して、良い麦であろうとし続けること。
 イエスさまは、「毒麦抜くな」って言いました。
 抜いてったらね、これは私の直感ですけど、毒麦を今の段階で性急に抜き始めたら、イエスさまもおっしゃるとおり(マタイ13:29)、どんどん良い麦も一緒に引っ張られて抜けてっちゃって、最後、何も残らないんじゃないですか。だれが良い麦でだれが毒麦って話じゃありません。世界は不完全であり、だれの中にも良い麦と毒麦があるって話です。
 皆さんの心の中にも、毒麦が生えていますでしょ。・・・必ずあると思いますよ。「私の心には毒麦なんかありません!」って言う人が、一番毒麦です。(笑) 間違いなくそうです。
 だから私、この毒麦のたとえの続編っていうのを作った。この箇所、3年に一度回って来るんで、3年前に私の作ったたとえ、お話しましたけど、覚えてますか?(※8)
 私も細かくは覚えてませんが、こんなようなたとえです。
 この(しもべ)がね、「そのままにしておけ」っていうのに、主人にね、しつこく言うんですよ。
 「いいや、あの毒麦は、ほっといちゃいけません。絶対に許せない。あの毒麦さえ抜けば、すべてはうまくいきます。ご主人さま、あなたは優しすぎる。どうかご主人さま、1本でもいいから、毒麦を抜かせてください」、そう言い張りました。
 すると主人は、
 「そうか。お前がそこまで言うなら、一番悪い毒麦を1本だけ、このわたしが抜くことにしよう」。
 そう言って、その(しもべ)を、ヒョイと抜きましたとさ。(笑)
 ・・・コワいでしょう? (笑) 
 「毒麦、抜け、抜け」ってね、人に指突き付けている人たち、ヘイトスピーチじゃないですけど、「あいつらさえいなければ」って言う人たち・・・。一番の「毒」ですよ、それが。神さま、忍耐しておられるというのに、自分の中に毒麦があることに気づかずに、ただただ、他の毒麦を抜き去れば幸せになれると思っているとしたら、それは、イエスさまの教えではありません。そこはもはや教会ですらありません。
 毒麦抜き始めたら、一人も残らないでしょう。

 私たちはみんな互いに、「ああ、お互い毒麦を抱えて生きてるんだな。毒麦と共にあるのって大変だよね。忍耐いるよね。その気持ちわかるよ。でもゆるし合って一緒にやってこうね」って言うべきだし、ときにはその毒麦のおかげで、共感したり一致したりすることすらできる。・・・キリスト者とは、そういう信仰者です。イエス・キリストご自身が、毒麦と対決せず、毒麦をすべて受け入れることで、この世界を良い麦畑にしてくださるからです。
 ただ、「毒を抜きましょう、そうすれば幸せになります」っていう考え、それはやっぱり、直感的に「おかしい!」って思ってください。
 この大自然なんか、やっぱり「毒があってこそ」っていうとこ、ありますもんね。毒も何かの役に立ってるんですよ。よく聞く話じゃないですか。「害虫をぜんぶ駆除したら、生態系のバランスが壊れて、結果的にその良い畑もだめになりました」みたいなね。「悪い菌をただただやっつけてたら、かえって人間の免疫機能が落ちて、病気が増えちゃいました」とかね。
 そんな、本来の大自然の深~くつながり合ってる現実と同じように、人間の罪や悪の問題も深くつながりあっているという現実もそうでしょう。ただ二元論的に「悪」を排除するのではなく、神さまが大きなお考えで見守っておられることを、もっと謙虚に受け止めないと。
 悪や罪がいいとは言わない。でも現実に存在し、善と悪が絡み合っている以上、現実を本当に愛をもって受け止めて、そんな中でも、少しでも良い者であろうとするという忍耐が必要です。

 コルベ神父さんなんか、ホントに、究極の「悪」の真ん中で、究極の「善」だった方でしょ。
 今日も映画監督さんがいらしてますが、コルベ神父さんが映画について、他の神父と議論したっていう記録が残ってる。で、その「他の神父」は、ある意味、「映画はよろしくない。あれは、ただの娯楽であり、時に人をたぶらかす」っていうような、映画反対論者なんです。しかし、コルベ神父さんは、
 「いいや、私たちは、よい世界のために、霊的な良いものを育てるために、何でも(・ ・ ・)利用しなきゃいけないんだ」っていう論者だったと。
 確かに悪い映画もある。そのころは、「映画なんて悪徳だ」っていう人もいた時代です。でも、コルベ神父さんは、「何でも(・ ・ ・)利用しよう」と。霊魂の救いのために。
 今日、この後で映画監督さんにお話していただくわけですけれど、まさに、そのコルベ神父の映画を撮ったわけですし、そのおかげで救われた人もいるでしょう。ただ悪いもの、気に入らないものを排除して、なくしていけばいいか。・・・そういうことじゃないんですよね。
 コルベ神父さん、結果的には、アウシュビッツで、ただ暴力に踏みつぶされたとしか見えないとしても、その毒麦の中にこそ、まさに、神さまの聖なる働き、良い麦が育っていたということを、後々私たちは知ることになるわけでしょ?
 ・・・悪は確かにあります。
 アウシュビッツなんか、究極の悪です。それは、なくしたらいいでしょう。しかし、なくしても、なくしても、やっぱりあります。
 だいたい、「悪」っていうけど、アウシュビッツって、あれ、誰がつくったんですか? 神さまがつくったもんじゃないですよ。人間がつくったもんですよね。人間の中の争う気持ち、人間の中の差別の気持ち、偏見の気持ち。そういう、「敵の仕業」によって人の中に生えている毒麦の目に見えるしるしじゃないですか。目立つ毒麦であるアウシュビッツを抜いたところで、あなたの中に一本の偏見があれば、おんなじことなんです。・・・それはなくならない。すべての人の中に、「わが心の内なるアウシュビッツ」があるはずなんです。死ぬまであるはずです。
 争う気持ち、差別する気持ち、あるでしょう?
 「悪を取り去る」っていうのは、この、目の前の悪を取り去るっていうこと以前に、やっぱり、この私たちの心にある、この毒麦に気づくこと。人の毒麦を裁かないこと。そして、良い麦をいっぱい育てて、増やしていくこと。・・・それしかないでしょう。最後は、神さまがちゃんとすべての悪を取り去って、良い麦畑を完成させてくださると信じて。
 あの地下牢で、コルベ神父さんが聖母賛歌を歌い、祈ってると、「それはもう教会みたいだった」っていう証言がありますよ。・・・教会みたいだった。
 アウシュビッツの地下牢が教会になる。
 この世界が神の国になる。
 毒麦を覆い隠すほどに、良い麦をたくさん、神さまによって育てていただきましょう。
 皆さんの中に、良い麦、いっぱい生えてます。悪い麦もあります。ぜんぶ抜き去ろうったって、死ぬまで、決して、すべてを抜き去ることはできません。・・・まあ、もしかすると、皆さんも最後に殉教でもすれば、(笑) 完徳というかね、完全に清らかになって、天国に行くことができますが、そうでなくても、神さまはちゃんと救ってくださいます。それを信じる。そこに希望を置く。今不完全であることを嘆かない。今完全でない人を裁かない。
 もしかしたら、コルベ神父さんだって、自らの内なる悪をちゃんと知っていたんじゃないか。だからこそ、あの苦しみの中で、最後に殉教できることを、神さまに感謝してたかもしれない。・・・というくらい、自分の中の悪を忍耐強く背負っていたんじゃないですか? 自分の中の毒麦を、誰よりもきちんと見てたんじゃないですか? そんな自分を赦してくださっている神にのみ希望を置いていたんじゃないですか?・・・そんな気がする。
 神さまは本当に、大~いなる愛情を持って、慈しみを持って、毒麦の中で精いっぱい頑張っている私たちを救いに導いてくださっている。そして、この「私」という毒麦を、どこまでもゆるして愛してくださっている。そういう神さまの忍耐に、今日は心を開きます。
・・・「ありがとうございます」という思いで。

 おととい、お寺さんから電話がきて、私、すごくうれしかったんですけど、愛知県の豊橋という所にある、真宗大谷派(※9)の大きなお寺のようでしたが、そこの若き僧侶から、「ぜひ、講演しほしい」っていうんですよ。
 来年、2015年は、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人(※10)が亡くなられて750年にあたり、「七百五十回御遠忌(ごえんき)」の年だそうです。「御遠忌」(※11)っていうのは、「遠い」っていう字を使うように、50年に一度の法要をするとかで、「750年」っていうから、15回目になるんでしょうか。
 この御遠忌に当たって、実行委員会がどんな企画にしようかと話し合ったんだけれども、いつもなら偉いお坊さんが来て、何かありがたい法話をするってことになるんでしょうけど、今回はぜひ、他の宗教と対話をしたいということになったそうです。
 今の世の中、さまざまな宗教があるけれども、本来は平和をもたらすはずの宗教的心情が、互いに責めあって、時に暴力的になったり、自らを絶対視して時に強制的、排他的になったりすることがある。ここで原点に立ち返って、すべての人を大切にし、すべての人を救うという、あの親鸞聖人の教えのとおり、もっと普遍的な救いについて、教えについて、他宗教と出会い、語り合いたいと。
 私、うれしかったですね~。まあ、愛知県ですから、ちょうど中日新聞(東京新聞)にね、私の、「宗教の普遍性」っていう、あの記事、読んでいただけましたか?(※12) あれが出たので、それで、「ぜひこの人に」と、白羽の矢が立ったようですけれども、私はすごくうれしかった。
 ・・・なぜなら、それ、私の夢だったからです。  
 念願かなって、お寺デビュー!(笑) しゃべりまくってきますよ、立派な本堂で。
 すべての人を迎える極楽浄土(※13)の真理について。浄土すでにここにありという仏国土(※14)をもたらす、御仏の慈悲について。すなわち、「すべての人を救う」という阿弥陀如来(※15)の望みによって、救いはすでにここにあるという弥陀の本願(※16)について。・・・驚愕の説法をしてまいりますよ。(笑)
 「今まで聞いた、どんなお坊様の法話よりも良かった」と言わせよう。(笑)
 言わせたいですよ。だって、それは福音の真実だから。・・・真理なんですよ。
 それを、「弥陀」と呼ぶか「キリスト」と呼ぶか、「仏国土」と呼ぶか「神の国」と呼ぶかは、・・・まあ、だんだんに整理して工夫していけばいい話で、まずは、人を救う「真理」なんです。真理は人を自由にします。みんな、救いを求めてるじゃないですか。そして仏法に出会い、福音に出会って救われてるじゃないですか。それに何かこう、いろんな規制を設ける必要ないですよ。
 電話いただいたその若き僧侶を、私尊敬しますし、感動しました。
 だって、こんなようなこと言ったんですよ。
 「救いを求めている人は、たまたまお寺さんに行ったか、教会に行ったかで、その人は一見違う道に導かれているように見えるかもしれないけれども、「救われたい!」と思って、必死に救いを求めて苦しんでいる状態、まだお寺にも教会にも出会う前の人たちの思いは、これは、みんな一緒のはずだ」と。「救いを求める心は、みんな共通しているはずだ」と。「それが、実際に宗教に出会ってみたら、救いが別々になり、人々がバラバラになっちゃうとしたら、おかしい」って。
 ・・・すごくないですか? 私、感動しましたね。おっしゃるとおりでしょ?
 苦しかった皆さんも、カトリック多摩教会に出会い、救われました。
 でも、他の宗教に出会ったかもしれない。
 そんな違いを越えて、神さまが、ホントにちゃんとすべての人を救おうとしている、その「普遍性」ということをもっと極めたい。「ここでなきゃならん、これでなきゃならん」って言う教えは、弥陀の本願じゃないんじゃないですか? すべての人を救おうっていう、天の父の愛じゃないんじゃないですか? そんな教えじゃ、あなたは救われないんじゃないですか?

 親鸞聖人、何て言ったかご存じですよね。
 「善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をや」って言ったんです。(※17)
 善人ですら救われる。まして、悪人が救われるのは、当然のことではないか。
 彼が何を言いたかったか、わかりますよね。
 「良い麦なおもて往生をとぐ いわんや毒麦をや」って言ってるんです。
・・・悪い麦を救ってくださる天の父。心から感謝と、安らぎを覚えます。


【 参照 】

※1:「コルベ神父さまの映画」
【タイトル】:『コルベ神父の生涯‐アウシュビッツ愛の奇跡』(1981)
【監督・脚本】:千葉茂樹
【出 演】:津嘉山正種、東恵美子 他
【内容紹介】:
 第二次世界大戦中、アウシュビッツ強制収容所で起きた、ある究極の愛のドキュメント。
 昭和初期、長崎にて困難な宣教活動をしていたコルベ神父は、ポーランド帰国後ナチスから非協力的人物として捕らえられる。ある時、逃亡犯の連帯責任として10人の処刑者が選ばれたとき、妻子ある若者が必死で命乞いをした。神父はその若者の身代わりを申し出て、飢餓室に送られ、究極の愛の証として帰天した。
 神父の様子を語る数少ない証人へのインタビューや再現ドラマをまじえた、コルベ神父の足跡を追う貴重なドキュメンタリーアーカイブス。
 その愛の姿は時を越え、宗教を越えて私たちに戦争の愚かさ、平和と人類愛の尊さを改めてストレートに感じさせる。
 1982年 第3回 日本赤十字映画祭最優秀賞受賞(Amazon「内容紹介」より)
【DVD販売元】:女子パウロ会 (DVD価格:3,780円〈税込〉)
 ご興味のある方は、ぜひDVDをご覧ください。
 お求め: Amazon女子パウロ会オンラインショップ教文館イーショップ、他、お近くのキリスト教書店などでどうぞ。
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※2:「監督さん」
=千葉茂樹 監督
 映画監督。脚本家。
 1933年、福島県に生まれる。川崎市在住。日本大学芸術学部映画学科卒。カトリック信徒。
 近代映画協会、日本シナリオ作家協会に所属。2011年日本映画学校校長。現在日本映画大学特任教授。川崎のみやまえ映像コンクール審査委員長。市民グループ「地球家族の会」代表。
 1979年には、日本人として初めて取材を許可された、「マザー・テレサとその世界」を完成。本作はキネマ旬報「文化部門」第1位、毎日映画コンクール教育文化映画第1位、日本ペンクラブ・ノンシアトリカル部門第1位、日本赤十字映画祭特別賞・最優秀賞を受賞している。
 他、活動、代表作などは、以下をご覧ください。
(参考)
・「映画で地球を愛したい」(シネマ人千葉茂樹オフィシャルサイト)
シネマ人千葉茂樹(千葉茂樹オフィシャルブログ)
千葉茂樹(ウィキペディア) ほか
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※3:「コルベ教会ですからね、ここ」。
カトリック多摩教会は、縁あって、コルベ神父(聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教者)を保護(守護)の聖人としていただいています。
(詳細は、カトリック多摩教会の月報より、「聖マキシミリアノ・M・コルベと多摩教会はつながっていた」という記事をお読みください。〈『多摩カトリックニューズ』2012年1月号投稿記事〉)
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※4:「コルベ会」
カトリック多摩教会の奉仕グループのひとつ。
長年、必要な場所に、お米や古切手、テレカを送ったり、甘夏の自家製加工品、じゃがいもの販売や、クリスマスセールを行って収益を得、福祉施設へ送ったりする活動をしてきた。
昨年末、さまざまな事情から活動の継続が難しくなり、閉会が避けられない状態となったが、数カ月後、有志が引き継ぐことが決定。現在に至っている。
(参考)
カトリック多摩教会月報(『多摩カトリックニューズ』)より。
・ 「コルベ会の活動停止に際し(2013年12月号投稿記事)
・ 「『マルタ、マルタ』と主は呼んでくださった(2014年7月号投稿記事)
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※5:「おひげもここにあるわけですしね。」
 カトリック多摩教会の聖堂には、「聖コルベ神父の遺物」として、長崎でそられた顎ひげが安置されています。この遺物はポーランドの修道院で保管されていた一部をいただいたものです。
 下の画像の向かって左が、その聖遺物で、右はコルベ神父の肖像画です。
(画像はクリックすると大きく表示されます)
左:コルベ神父のあごひげ(聖遺物)/右:コルベ神父(聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教者)
(参考>>>聖コルベ神父と遺品〈カトリック多摩教会HP〉)・・・< 文中へ戻る

※6:「8月14日、聖コルベの祝日には午前10時からミサがあります」
 8月14日は、聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教者の記念日とされています。
 この日(8月14日木曜日)、カトリック多摩教会では、午前10時から、記念のミサが捧げられます。
 どうぞ皆さま、ご遠慮なくいらしてください。ご一緒に、この日本にもゆかりのある、聖なる殉教者を記念し、祈りましょう。(多摩教会へのアクセス
 昨年のミサの様子を、多摩教会HPのフォトアルバムに掲載しております。よろしければご覧ください。
下の画像をクリックすると、別ページにフォトアルバムが開きます。

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※7:「新受洗者の洗礼記念文集」
カトリック多摩教会では、今年の復活祭に受洗した39名の受洗における感想文を、文集として1冊の小冊子にいたしました。
 多摩教会の信徒には、冊子として配布いたしましたが、インターネット経由でもお読みいただけるよう、準備を進めております。
 多摩教会のホームページで少しずつ公開してまいりますので、今しばらくお待ちください。
 なお、2012年、2013年の文集は既に公開しております。ぜひお読みください。
 1.2013年受洗者記念文集
 2.2012年受洗者記念文集 など
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※8:「3年前に私の作ったたとえ、お話しましたけど、覚えてますか?」
(参照)
・ 2011年7月17日〈年間第16主日〉)の説教「良い麦なんです、毒麦つきの
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※9:「真宗大谷派」
浄土真宗の宗派のひとつ。本山は、京都市下京区烏丸通七条の「真宗本廟」(通称、東本願寺)。
「浄土真宗本願寺派」(龍谷山本願寺、通称、西本願寺)と区別されている。
宗祖はどちらも親鸞聖人。本尊はどちらも阿弥陀如来。
(参考)
真宗大谷派 東本願寺
真宗大谷派(ウィキペディア)
浄土真宗本願寺派 本願寺(西本願寺)
浄土真宗本願寺派(ウィキペディア)
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※10:「親鸞聖人」
親鸞(1173-1262) 鎌倉時代前半から中期にかけての日本の僧侶。浄土真宗の宗祖。
尊称:親鸞聖人、宗祖聖人、開山聖人
宗旨: 浄土真宗
師: 法然
著作:『教行信証』、『三帖和讃』、他。
(参考)
親鸞聖人のご生涯(真宗大谷派 東本願寺HP)
親鸞聖人の生涯(浄土真宗本願寺派 本願寺HP)
親鸞(ウィキペディア)
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※11: 「御遠忌」
仏教諸宗において歴代の上人の100年以上の年忌で、50年ごとに一度行われる大きな法要。
(参考)
宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要 (真宗教団連合>真宗大谷派 東本願寺)
本山 東本願寺 宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌
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※12: 「中日新聞(東京新聞)にね、私の、「宗教の普遍性」っていう、あの記事、読んでいただけましたか?」
・ 晴佐久神父の寄稿文、「『宗教の普遍性』(上)=すべての人は救われる、分け隔てなく愛す」が、3月15日(土)付の東京新聞および中日新聞に、
また「『宗教の普遍性』(下)=すべての人を救う宗教、共感、共生する道へ」が3月22日(土)付の同紙にそれぞれ掲載されました。
「福音の村」では、東京新聞を発行する中日新聞社から許可を得て、サイト内に転載しております。
 まだの方は、ぜひお読みください。
  ※「宗教の普遍性」(上)- 「すべての人は救われる:分け隔てなく愛す」 
   〈 PDFファイル 〉〈 JPEGファイル 〉
     (中日新聞・東京新聞 2014年3月15日付)
  ※「宗教の普遍性」(下)- 「すべての人を救う宗教:共感、共生する道へ」
   〈 PDFファイル 〉〈 JPEGファイル 〉
      (中日新聞・東京新聞 2014年3月22日付)
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※13: 「極楽浄土」
阿弥陀仏がいるとされる、苦しみのない理想郷のこと。阿弥陀仏を信じ、ひたすら念仏を唱えることで、死後、迎え入れられるとされている。
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※14: 「仏国土」
菩薩として衆生を救済せんという誓願を立てて悟りに達した仏陀が住む、清浄な国土のこと。
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※15: 「阿弥陀如来」
大乗仏教の如来の一つ。「阿弥陀仏」、または略して「弥陀仏」ともいう。
浄土真宗では、阿弥陀は生きとし生けるものすべてを救う仏。
限りない光(サンスクリット語:Amitabha-アミターバ)、限りないいのち(Amitayus-アミターユス)として、はかり知れない(Amita-アミタ)働きをなさる方。この「Amita-アミタ」が後に「阿弥陀」と音写された。
(参考)
阿弥陀如来(ウィキペディア)
・「浄土真宗の教え」〈02に「わたしたちの仏さま(阿弥陀仏)」掲載〉(東本願寺
・「お釈迦さま物語」〈【8】に「阿弥陀さま(阿弥陀如来)とは」掲載〉(「純心寺」(浄土真宗西本願寺派)サイトより)ほか
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※16: 「本願」
仏教において、仏や菩薩が過去において立てた誓願(約束、宿願)。人々を救済しようとの根本の願い。
浄土真宗における「弥陀の本願」とは、阿弥陀如来の「業(ごう)にまみれた、煩悩に苦しむ衆生すべてを救いたい」という願い。
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※17:「善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をや」
『歎異抄(たんにしょう)』第三章より
『歎異抄』は、鎌倉時代後期に書かれた日本の仏教書。作者は親鸞の弟子の唯円とされる。
これは、親鸞聖人の「悪人正機」の教え、いわゆる「悪人を救うことこそが本願」であるという教えを言い表している。
(参照)
・「悪人正機」(ウィキペディア)
・「第6話 悪人正機」〈真宗の教え>ラジオ放送『東本願寺の時間』〉(東本願寺
・「悪人正機とは」〈浄土真宗のみ教え〉(西本願寺)ほか
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2014年7月20日 (日) 録音/2014年7月26日掲載
Copyright(C) 晴佐久昌英