私は永遠なる光だ

2014年2月9日 年間第5主日
・ 第1朗読:イザヤの預言(イザヤ58・7-10)
・第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント2・1-5)
・福音朗読:マタイによる福音(マタイ5・13-16)

【晴佐久神父様 説教】

 よく来ましたねえ、この吹雪の中。意地ですか?(笑) そう思って見れば、意地っ張り・・・の(笑)面々のようにも見えますよ。この雪、普通は出て来ないんじゃないですか。まあでも、交通も大変な中、神さまが集めたわけですから、この集いにはやっぱり、特別な意味があるんでしょうね(※1)

 今日、「病者のためのミサ」ということで、皆さんが親しい病者のお名前を書いたものをまとめて袋に入れ、祭壇前にお捧げしました。まごころ込めてお祈りしたいと思います。
 とはいえ、考えてみたら「病気の人」と「健康な人」って分けるのもおかしいというか、「病気」っちゃあ、ある意味みんな病気ですからねえ。教会家族として苦しんでいる人のためにお祈りするっていうのは当然ですけど、今日はむしろ、病んでいる私たちが、互いに(やまい)によって結ばれていることを思いたい。病や痛みという闇を抱えている私たちが、その病によってひとつになり、その闇によって神の愛に出会うっていう、そんな神秘について思い巡らしたい。
 雪に閉ざされているかに見えるこのミサでも、試練の中にある人、闇に閉ざされた人同士、見えない働きでつながるならば、そんなつながりを通してこそ、キリストの光が輝くんじゃないですか。単に健康な人たちが、かわいそうな病気の人たちのために祈って、「早く元気になるといいね」って話じゃないってことです。
 私たち、みんな不健康なんです、本質的な意味では。誰だって、天に生まれていくまでは、完全な健康じゃありえない。「不健康」じゃあ言葉は悪いかな、「不完全」なんです。まあ、当たり前のことっていうか、地上では神さまがお定めになった不完全を、私たち生きてるわけでしょう?
 私だってそうですよ。さっき電話がかかってきて、遠い北国からですけど、「『福音の村』を読みました。歯はだいじょうぶですか?」って。(笑) どうもすみません、皆さんにご心配をおかけして。ちゃんと治療してますからだいじょうぶですけど、ちゃんとは治ってません。今もまだ・・・。実を言うと私、このお捧げした病者のお名前入れた袋(※2)に自分の名前も入れようかって、迷ったんですよ。(笑) 入れなかったんですけどね。この世ではみんな、不完全なんです。
 その不完全の中で、信仰の光を輝かしなさい、ってことでしょう。
 今日の福音で「人々の前に輝かしなさい」って言われている「あなた方の光」って、そういう光であるはずです。イエスの周りに集まっていたのは「いろいろな病気や苦しみに悩む人」だったし、そういう人をイエスは召して、そういう人をイエスが光らせる。
 だから、今日もこれ、単に「治る」ことを願う「病者のミサ」じゃないんです。もちろん、いやされるようにと祈りますよ。祈るんだけど、より本質的に、「病という神秘において一致する」といいましょうか、「病という不完全において神に触れる」といいましょうか、そこを願うんです。・・・だって完全だったら「神」なんかいらないんだから。
 不完全であるということにおいて、その足りなさ、弱さ、痛さ、キリスト教用語でいうなら「十字架」において、神さまに触れるというその神秘、そこに、ちゃんと私たちが触れていないと、「病の人のために祈る」ったって、それはなんか、上から目線になっちゃってね、あんまり意味ないことのような気がしますよ。「早くお元気になりますように」っていうんじゃあねえ、世間と一緒でしょ?
 むしろ、「私も病んでいます」「私も痛かった」「私も不完全です」と。
 「でも、だからこそ、あなたとつながってるんです」
 「だからこそ、全人類と、全歴史の人々とつながってるんです」
 ・・・「だからこそ、神さまとつながってるんです」と。
 そういう神秘を思い巡らさないといかんのでしょうねえ、今日は特に。

 今日も、洗礼準備の面談をして、「洗礼許可証」(※3)に、今日は2名、サインをいたしました。
 許可証の番号で言えば、28番と29番。・・・あとひとり30番、早く「志願書」(※4)出しなさいよ。(笑) そこにいる30番。(笑) 今年の受洗者目標数、30人ですから。一応あと数名内定がいるので達成できそうですけどね。・・・去年30人にあと少しで、届かなかったからね。だから去年は入門係に当たり散らしたんですよ。「あんたたちのせいだ!」っとかって。(笑)
  いつだって、そのあと少し、あと一人を闇から光へ迎え入れることこそが、大切なんだから。
 28番と29番、やっぱり、それぞれの闇を抱えていました。でも、この教会で光に出会って、洗礼志願をしたわけです。アウグスティヌス(※5)じゃないですけど、闇は単に光の陰であって、ある意味、光に奉仕しているわけです。光があれば、当然闇が生まれるけど、そんなの当たり前のことで、その闇をじっと見ても何も見えない。その闇が指し示す光、自分の存在の根拠である光を見なければいけないわけですよね。
 病気も障害も、さまざまなつらい出来事も、みんな、「闇」といえば「闇」。でもそんな現実の中でこそ、その大もとの「光」というものに気づいて、その光がすべてを満たしているという神秘に信頼を置いて、そこに向かって歩み続けようっていうことなんですよ。そういうことじゃないですか?

 28番さん、そこにおられますが、いろいろ闇を抱えておられたようですけれども、「初めてこの聖堂にやって来たとき、思わず(・・・)口をついて『ただいま〜』って言っちゃた」っていう話をね、さっきあなたから聞きました。すごくわかりますよ、それ。
 「思わず(・・・)口をついて『ただいま〜』って言っちゃた」って、それはどういうことかっていうと、誰もが、帰りつくべき神さまの世界、光が満ちている栄光の世界、パウロでいうならば「天という本国」(※6)に帰っていくわけで、多摩教会はその天のふるさとの入り口なわけでしょ? だから、あなたはここにやって来て、この教会の向こうにある光の世界を直感して、自らの口で「ただいま〜」っと言ってしまったんです。
 あなたはそのことをひとつの奇跡だと思ったようですが、3度目に多摩教会に来たときに、ホントの奇跡に気づいた、と。
 「私がこうして、この教会にいること自体が、真の奇跡だ」と。
 そうなんです。人は本来光の子であって、闇にとどまることができないのです。光へ向かう旅路が始まりました。それは奇跡的な神のわざです。信じて、一緒に歩んで参りましょう。

 29番も来てますね・・・すいません、数字で。(笑) 29番は、面接の後で「今日、洗礼面接短かったね」って言われてましたけど、実は君が一番長いんですよね。今までもう、君の話をどれだけ聞いたか。まあ、その意味ではすでに面接終わってるようなもんですけど、でも、今日は自分の信仰のことを面白いたとえで話してくれて、よかったですよ。
 自分は、砂嵐の中をず〜っと放浪してきた。何で歩いているのかわからない。どっちに行っていいかわからない。虚無の中をさまよい歩いていると、ある時キリスト教を知って光が射し、パッと砂嵐が晴れてみたら、きれいな大きな山があって、登っていったら多摩教会があった。中に入ると仲間がいて、一緒に山頂目指して出発だ、みたいなね、洗礼を受ける今はそんなイメージですっていう話。なかなかいいイメージですよね。
 「ぼくの人生の第1部、『放浪の旅』は終わり、今、第2部、『信仰の旅』を始めるんだ」と。
 もちろん、山頂はまだですね。私だって、まだです。山頂はうっすらと見えるし、かなり近くまで行ったこともあるんですけど、本当に山頂に着いちゃったら、もう戻って来れないですからね。山頂に行って戻って来たのはイエスさまだけ。そこは、神の国が完成した栄光の世界。殉教者たち、聖人たちが入っている、信仰の先輩たちの世界。そこに向かって、ぼくらは共に旅路を続けていく。・・・第2部「信仰の旅」、いいですねえ。
 旅ですから、まだ、試練はありますよ。でも、もうすぐなんです。エベレスト登山でいうと、サウスコルみたいなとこ。「サウスコル」ってご存じですか(※7)? エベレストに登るためには、南側にちょっと平らなとこがあって、みんなそこにテント張って、そこからアタック隊が登頂するわけですね。多摩教会もそのあたり。
 もうすぐってとこまで来ているんです。もちろんこの後もまだまだ、落っこちかけたり、悪天候で吹雪の中のような思いになったりするかもしれない。でも、洗礼前とは、決定的に違う。砂嵐の中では、一体この嵐は何なのか、わけがわからない。自分がどっちに向かって歩いているのかも、わからない。この先どうなるのかも、何もわからない。だから、歩く意味もわからない。うずくまっていても(むな)しいし、歩いて行っても心配だし。それはまさに、「砂嵐の中の放浪の旅・第1部」だったわけですけど、今は、山が見えてるんです。山を知ったんです。山に登っていく仲間がいるんですよ。
 だから、落っこちかけようと、視界が悪くなろうと、それはそれで苦労なんだけれど、砂嵐の中の虚しい放浪とは全然違う。耐えていれば、その先があるっていう、希望の旅なんですね。苦しいけれど、痛いけれど、もうあの山頂に着くためだったら我慢できるっていう、そういう希望の旅です。それを知ってるのと知らないのとでは、これはもう、生か死かっていう話ですよ。
 山を知っていれば、「ああ、もうやっぱり無理かも・・・」なんて思うようなときに、はたと思い出す。
 「俺はあの山小屋で洗礼を受けたじゃないか。この自分は選ばれている。この仲間たちと歩んで行けばいいんだ。だまされちゃいけない、この嵐に。どんなに寒く、苦しくても、もう一歩、信じて先に進もう」
 ・・・いいねえ、信仰の旅。
 どうでもいいけど、この聖堂、寒いね。(笑)ちょっとこれ、みんな風邪引いちゃうよ。暖房、ついてる? 雪で壊れちゃったかな。まあ、信じて歩んでまいりましょう。(笑)

 もう一人、昨日洗礼許可サインした27番の話も。
 この人もつらい思いをして、闇をくぐって来ました。大切なパートナーの女性を失ってから、自分も早くパートナーのもとに行きたいと思って、富士山に行こうか、彼女のふるさとの海に潜ろうかって迷っていたそうです。そうして遺影を見て泣いてる毎日だったので、遺品整理に来たパートナーの実家の遺族から、「少し散歩でもして来たら」って言われて、散歩に出たんですって。
 それで外を歩いてたら、まったく見知らぬシスターが声をかけて来て、「つらかったでしょう、お疲れさまでした」って言って、ロザリオを渡されたと。そして、「一度、教会に来てごらんなさい」って言って去ってったって。(笑)
 ね、すごいでしょう? この話。そのシスター、誰だかわかんないんですよ、今でも。それで、その週の日曜日に近くの修道院のミサに出て、やがて洗礼を受けたくなって、多摩教会にやってきて、そして昨日の面接だったんですけどね。私、昨日それ聞いて感動しましたよ。だって、道でいきなり知らないシスターが、「つらかったでしょう、お疲れさまでした」って、ねえ。
 何ですか、私思うに、天地創造の神さまが、その栄光の世界を味わわせたくて人間を造ったわけでしょ? で、主イエス・キリストを送ってくださって、キリストの教会がこうして現にある。ですからホントにそういう神さまの栄光の世界、そのみわざを信じて聖霊に満たされて歩んでる人だったら、道行く人にそんなひと言を掛けるくらい、何でもないんじゃないですか。
 そのシスター、そういうまっすぐな信仰を持ってる方だから、ごく普通のことなんでしょうね。勇気を出して、がんばって声かけたとかじゃなくって、見た瞬間、「あっ! この人を救わなくっちゃ」って思ってロザリオを渡す。もしかしたら、道行く人全員に渡し続けてるシスターかもしれませんけど、(笑)それは考えにくいですからねえ。そういう人は、わかるんじゃないですか? この人にひと言って。聖霊に満たされて。栄光の世界を信じて。なすべきことをなしている人。
 普通に考えたら、ちょっと神話的というかね、おとぎ話みたいなふうに思うかもしれないけど、でも、私には、そっちの方が、なんかリアリティーがあるなあ。聖霊の働きを信じて生きる仲間として、ぼくらも、そのシスターみたいに働こうじゃないですか。
 「誰かに渡すロザリオを三つくらい、ポケットに入れて歩けよ」って話ですよ。うつむいて、呆然と歩いてる人がいたら、「つらかったね。でも、もうだいじょうぶ。教会においでよ」って言って、ロザリオ渡せって話ですよね。神さまはそういうことを願って、イエスを送ってくれたんだし、教会をつくってるんだし、私達を出会わせているんだから、あと、ぼくらに必要なのは、自分が与えられたその光を、ちゃんと輝かせることだけなんです。
 やりましょうよ、それ。どんなかたちでもいい。そういうものとして、私たち、選ばれてると思いますよ。

 さっきも28番と音楽の話をしてる時にお話したんですけどね、昨日の夜、私の親しい友人が来て、これ、無人島キャンプ仲間でもあるんですけど、二人でお鍋食べたんですよ。その時、島での懐かしい思い出話が出たんです。もう15年位前の話ですけどね。
 ぼくが、夜、無人島の浜を散歩してたときのこと。満天の星空でね、天の川が鮮やかに見えるんです。すると、向こうから、ライトをチラチラと揺らしながら、その友人がやって来た。やっぱり散歩してたんですね、浜を。で、ぼくとすれ違う時に、「はれれ、この曲いいよ、聞きなよ」って、自分が聞いていたウォークマンみたいのを渡してくれて、ヘッドホンをぼくの耳にあてて、そのまま行っちゃったんですよ。自分がそれを聞きながら、気持ちいい夜の散歩をしてたわけでしょ。だから、すれ違いざま、その感動を分かち合ってくれたわけだ。「はれれ、聞きなよ」って。   
 で、その時聞いたのが、なんて曲だったか分からなかったんだけど、彼もまたそのことよく覚えていてくれて、昨日お鍋食べながら教えてくれました。アディエマス(Adiemus)の「ヒム」(Hymn)っていう曲でした。ヒムって、聖歌とか、讃美歌っていう意味ですね(※8)。アディエマスってご存知ですか(※9)? 昔、流行りましたよね。どうぞ、検索して聞いてみてください(※10)。で、この「ヒム」ですけど、ちょっと宇宙的で、宗教的な、非常に美しい、どこかエンヤ(Enya)(※11)にも似てる感じの美しい曲なんですね。アカペラみたいなコーラスの歌声に、神秘的なアレンジが入ってて。
 それ聞きながら浜を歩いてたら、とっても感動してね。見上げれば満天の星空でしょ。神秘的な音楽に、無人島の波の音も加わってね。
 その時、はたと直感したというか、目覚めたんです。これ、26歳の時に、ちょっとした神秘体験をしたことがあるんですけど、そのときの感覚がもう一回よみがえったっていうような体験です。
 どんな体験かっていうと、宇宙のね、いっちばん遠くの星と、今ここの自分が、一つの出来事としてつながってるっていう強烈な実感なんですよ。
 音楽の影響もあるでしょうね。そのとき直感したのは、この世界には秩序があるってことです。一見ものすごく混沌としているこの現実の中で、すべては無秩序であるように見えるとするならば、そうじゃない。神さまは、この世界を秩序あるものとしてお造りになったんです。そのことをよく表していると思うんですよ、音楽って。
 世界はいろんなノイズに満ちて、音はバラバラに散らかってるように思うけど、実はリズムがあって、それが混沌の中に意味を与えてるわけでしょ? あるいはメロディー、あるいは和声。非常にシンプルな、ある秩序によって音楽ってのは成立しています。一見無秩序な現実の中に、音楽という秩序をもたらしているんだけども、それを秩序あるものとして聴く存在こそが、人間なんです。
 だから、もしも人間が、この世界にホントに神の秩序を見出して聴くことができるなら、それは美しい音楽として聞こえるんですよね。メシアン(※12)なんかは「鳥の声だって音楽だ」なんて言って、採譜したりしてるでしょ。そんなことするの、人間だけですよ。
 それで言うならば、あの浜で、ぼくは宇宙全体の秩序を、美しい音楽として聴いたんですよ、そのとき。すべてがこう、神さまの秩序によって成り立っていて、われわれが無秩序と思っているものは、それは、われわれの不完全さがそう見たり聞いたりしているだけであって、本来は、完全なる神の秩序が、すべてを満たしている。それを感じるために、人間はこの宇宙に置かれているんです。
 宇宙の一番端っこでキラリと光った星の光は、光ってどこまで行っても絶対に消えませんから、等速直線運動(※13)で、ずーっと、どこまでも広がって、この地上にまで届いている。光は筋ではなく、球になって広がってくわけでしょ。だから、すべての光は宇宙を満たすんです。そうしてすべての光が、実はひとつのことであって、神さまの栄光の世界はもう出来上がっているし、私は、それを感じるためにここにいる。宇宙のすべての光と、私は、ひとつの出来事なんです。
 まあ、あれくらい美しい環境、美しい音楽だと、それに目覚めない方がおかしいでしょうけど、自分が今、そのような神の秩序を感じてるって思った瞬間、自分の生まれてきた意味、私がここにいることのすごさ、今ここで神さまが私にそれを現しているということの愛の深さを、スコンとわかって。「これでもう、何もいらない。私は永遠なる光だ」っていう、あの満ち足りた感じっていうのは、忘れられないですねえ。

 私たちはもう、神さまの光の中にいて、不完全ではあるけれども、完全なる神を知ることができる。そしてその、完全なる神の光を受けている者として、信じて希望を持って歩んでいれば、周りを照らすこともできる。私たちは、世の光なんです。世の光イエスとひとつである者として。
 闇の中を歩んでる人たち、大勢います。あなたが、その人を照らすことができるんですよ。
 第1朗読のイザヤ書で(※14)、「あなたの光は輝く」って言ってますけど、どうすれば輝くって言ってるか。
 「同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出でる」(イザヤ58:7-8)
 「苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は闇の中に輝き出でる」(イザヤ58:10)
 照らしてあげてください。たとえ病気でも、永遠なる光なんですよ。
 第2朗読のパウロも(※15)、不完全なんです。衰弱して不安なパウロが、「霊」と力の証明によって・・・。
 ・・・もういいね、パウロの話は。(笑) 雪で電車止まっちゃうかも。
 え〜、もう、早く帰りましょう。(笑)


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)

※1:<この日、大雪の多摩教会>
(それぞれの画像は、クリックすると大きく表示されます)

2月8日(土)夕方 主日のミサ前の多摩教会
2月8日(土)夕方
主日のミサ前の多摩教会
2月8日(土)夜 主日のミサ後の多摩教会
2月8日(土)夜
主日のミサ後の多摩教会
2月8日(土)夜 聖堂脇の聖母子像
2月8日(土)夜
聖堂脇の聖母子像

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※2:「このお捧げした病者のお名前入れた袋」
 カトリック多摩教会では、2月11日の「世界病者の日」を迎えるにあたって、その前の主日を「病者の日」とし、病床にある方やけが、ご高齢など、さまざまな事情で教会に足を運ぶことのできない方々のために、ミサを捧げた。
 各々は、あらかじめ準備された「病者の日ミサ用カード」に、家族、友人、知人などで、そのような状態にある方々のお名前を記入し、集まったカードはひとつの「袋」に入れて、ミサ中に奉納。その方々のために、共に祈った。
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※3:「洗礼許可証」

洗礼許可証 (クリックで拡大)
洗礼許可証
 カトリック多摩教会では、洗礼を希望する場合、主任司祭(晴佐久神父)に面談を申し込み、面談で洗礼の許可が与えられたら、この「洗礼許可証」を渡される。
 カトリック多摩教会での、洗礼までの比較的詳しい過程をお読みになりたい方は、「多摩カトリックニューズ」〈2013年1月19日発行〉
 主任司祭巻頭言、「洗礼シーズン到来」をお読みください。
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※4:「志願書」(「洗礼志願書」)

洗礼志願書 (クリックで拡大)
洗礼志願書
 ※3の「洗礼許可証」を受ける前、「入門講座で福音を聞き、教会家族と教会体験を重ね、ついに洗礼を受けたいと思うようになったら、この「洗礼志願書」を入門係に提出。提出期間は、原則として、待降節第1主日から、四旬節の始まる2週間前まで」(上記ニューズ巻頭言、「洗礼シーズン到来」より)
 (もちろん、洗礼に至る道は、この限りではありません)
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※5:アウグスティヌス
◎アウグスティヌス〈ヒッポの〉  
 アウレリウス・アウグスティヌス(ラテン語:Aurelius Augustinus)354‐430
 ラテン教父の伝統にあって最大の神学者・哲学者。その後のあらゆる思想潮流に対して多大の影響を与え、「西欧の父」と称せられる。
 ローマ帝国末期、354年、アフリカのタガステで生まれる。青年期にマニ教、新プラトン主義などを遍歴するが、386年、劇的な回心。396年、故郷ヒッポの司教となる。以後終生西方教会の理論的指導者として司牧。『告白録』『三位一体論』『ヨハネ伝講解』、『神の国』など、神学、哲学、聖書注解など幾多の著作を連綿と著し、その後の西欧の思想と歴史そのものの支柱、源泉となる。晩年には異端論駁書も多い。
 最後は、ヴァンダル族がヒッポの城壁を取り囲み、西ローマ帝国が崩壊への道を行く様を見つつ、しかも永遠なる神の国、万物が復活し集う全一的な姿を望見しつつ、430年、世を去る。(2008年『岩波キリスト教辞典』岩波書店から、抜粋)
 概略的紹介は、アウグスティヌス(コトバンク)、アウグスティヌス(ウィキペディア〈フリー百科事典〉)など参照。
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※6:パウロでいうならば「天という本国」
(参考)
・ 「しかし、わたしたちの本国は天にあります」(フィリピの信徒への手紙 3章20節)
・ 「ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです」(ヘブライ人への手紙 11章16節)
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※7:「サウスコル」
◎サウスコル
 通常、「サウスコル」というと、世界最高峰のエベレスト山と、第4位のローツェとの間にある鞍部(山の尾根の一部で、低くくぼんで馬の鞍状になっている場所)のことをいう。
 ネパール側、南東稜からエベレストに登ることを試みる場合、ここに最終キャンプである「キャンプ4」が設置される。普通、サウスコルは強風で積雪がない。
(詳細は South Col〈英語版ウィキペディア〉をご覧ください) 

サウスコル① (「福田のデジカメ写真ギャラリー」より)
サウスコル①
(「福田のデジカメ写真ギャラリー」より)
 
サウスコル②
サウスコル②

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※8:「ヒム」(Hymn)
◎hymn (発音記号:hím)
【名詞】(教会の)讃美歌、聖歌
【他動詞】(讃美歌、聖歌を歌って)〈神などを〉賛美する;(讃美歌、聖歌で)〈賛美や感謝などを〉表す。
【自動詞】讃美歌を歌う。
【語源】ギリシャ語から; 【形容詞】hymnal
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※9:「アディエマス」
◎アディエマス (Adiemus)
 ウェールズのコンポーザー/アレンジャー、カール・ジェンキンスが、古くからのバンドメイトで盟友でもあるマイク・ラトリッジと共に結成した前衛クラシック音楽ユニット。(ウィキペディア)
(参考)
・ 「アディエマス
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※10:アディエマスの「Hymn」
(参考)
・ 「Adiemus – Hymn」(YouTube)
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※11:「エンヤ(Enya)」
◎エンヤ (Enya)1961-
 アイルランドの歌手、音楽家。ケルト音楽を下敷きに独自の音楽を展開する女性ミュージシャン。
(参考)
・ 「Enya/エンヤ」(Warner Music Japan:最新情報、リリース情報、音源・PV視聴など)
・ 「エンヤ」(ウィキペディア)
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※12:メシアン
◎オリヴィエ=ウジェーヌ=プロスペール=シャルル・メシアン (Olivier-Eugène-Prosper-Charles Messiaen)1908-1992
 フランス生まれの現代音楽の作曲家、オルガン奏者、ピアニスト、音楽教育者。
 音楽における人間性と抒情性の回復を目指した。作品は、カトリシズムに根源を置き、神秘的な面を持つ。また、独特の美学的立場から、鳥の声を採譜する試みの作品を書いた。
(参考)
・ 「オリヴィエ・メシアン」(ウィキペディア)
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※13:「等速直線運動」
 速度が一定であるような運動。外力が作用しないとき、物体は等速度運動をする。等速度運動。
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※14:「第1朗読のイザヤ書」
この日、2014年2月9日(年間第5主日)の第1朗読箇所
 第1朗読:イザヤの預言58章7〜10節
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※15:「第2朗読のパウロ」
この日、2014年2月9日(年間第5主日)の第2朗読箇所
 第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙一 2章1〜5節
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2014年2月8日 (土) 録音/2014年2月15日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英