「受け入れ教」をやっていきましょう

2015年12月25日 主の降誕(夜半のミサ)
・第1朗読:イザヤの預言(イザヤ9・1-3、5-6)
・第2朗読:使徒パウロのテトスへの手紙(テトス2・11-14)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ2・1-14)

【晴佐久神父様 説教】

 皆さん、2015年のクリスマス、おめでとうございます。
 素晴らしいクリスマスを迎えました。私たちは、今、聖なるミサで、心を開いています。天使たちが、今、皆さんに語りかけています。
 今日特にそれを味わうために、・・・ちょっと上をご覧ください、いつもと違うでしょ。気が付く人、いますかね。天上のガラス窓の日よけのシェードを、ぜんぶ開けてあるんです(※1)。ふだん、これ、日中のミサのとき、直射日光が暑いので閉めてありますが、お分かりになりますでしょ? 開けてあるの。私もこれ、ぜんぶ開けてあるのを見たこと、めったにないから、なんか新鮮な気持ちですけど。
 なんで開けてあるかっていうと、天使が見えるようにです。・・・今、もうすぐ来ますよ。天使の大群が、天に現れて、
 「いと高きところには栄光、神にあれ、
  地には平和、御心(みこころ)(かな)う人にあれ」(ルカ2:14)
 そう宣言いたします。どうぞ心を開いて、天の栄光の輝きを受け止めてください。心を開けば見える人には見えるはず。聞こえる人には聞こえるはず。実は、神さまは、いつもいつも、ず〜っと私たちに呼び掛けているんだから。
 天使とともに、天の栄光を歌いましょう。地の平和を願いましょう。
 私たち、つらい現実の中で、ちょっと(あきら)め気分でいるとしたら、改めて、「今日こそ神聖な夜だ」「平和は実現できるんだ」と心から信じて、特別の祝福を祈ろうじゃないですか。

 特にですね、「地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ2:14)って天使が言ってますけど、この「御心に適う人」ってどういう人かを、今日ははっきりと知って、2015年のクリスマスのキーワードとしていただきたい。
 神さまの「御心に適う人」っていうのは、ひじょ〜にシンプルな話で、「他者を受け入れる人」なんです。
 その意味では、イエス・キリストが、究極に「御心に適う人」だった。あの人は、人々を受け入れて受け入れて、弟子も罪人も受け入れ続けて、しまいにはもう、裏切り者も敵も何もかも受け入れて、十字架さえも受け入れて、その身に(くぎ)を受け入れてなお、人々を受け入れ続けた。そのイエスを、「御心に適った者」「究極の救い主」として、神さまは天に受け入れてくださったのです。
 キリスト教なんて、もう、ホントにシンプルで、つまりは「受け入れ教」なんですよ。
 ただただ、受け入れちゃうんです。排除しない。否定しない。罪のために苦しみ、悪に支配されたつらい現場もありますけれど、それは必ず良いものに変えられると信じ続ける。罪人を、悪人を、真に受け入れるために、キリスト者は、徹底して、希望を持ち続けます。傷付きながらも、延々と受け入れ続ける。
 ・・・神さまが、そうしてくださったから。イエスさまがそうだったから。
 そうして、皆さんも、受け入れられたんですよ。究極の「受け入れ(ぬし)」に。・・・そう。「救い主」っていう言葉が、ちょっと分かりにくいんなら、「受け入れ主」って言ったら分かりやすいんじゃないですかねえ。
 皆さんが、今、ここにいるってことは、もう受け入れられたってこと。今、洗礼を準備している人もいっぱいいますけど、つまりは、受け入れられようとしているんですね。・・・っていうか、そもそも「受け入れられている」という真実に目覚めようとしているんですね。
 「こんな私を受け入れてくれたんだ」という喜びに満たされて、私たちは、ここにいます。
 ・・・教会に受け入れられる私たち。神に受け入れられた私たち。
 だいたい、今の世の中、拒否することや、排除することばっかりでしょう? そんなつらい体験ばっかりしてきた私たちが、絶対に拒否しない、決して排除しない受け入れ主、すなわち神さまの愛の目に見えるしるしである受け入れ主に、受け入れられたのです。
 考えてみてください。皆さんもまた、受け入れられていなかったら、今そこに座っていないんです。あなたは、受け入れられたはず。誰かひとりのキリスト者に。どこかの教会に。聖なる秘跡に。時にはチラシ1枚によって。・・・受け入れられたはず。

 昨日、そういう受け入れる集いをやったんです。23日に、「祈りと歌の夕べ」(※2)っていう、ともかく、「まだ福音を知らない人、みんなを受け入れたい」という情熱のみで成り立っているイベントをやったんです。晴佐久神父が福音を語りまくって、信者たちが祈りの歌を合唱するという。
 精いっぱい歌の練習をしてね。指揮者がそこにおられますけど、終わった後で「どうでした? どうでした?」って聞くからね、まあ、一応、褒めましたよ。(笑)思わず、「アンコールのモーツァルトの『アヴェ・ヴェルム・コルプス』(※3)、ホントに名曲ですよね〜」って言っちゃいましたけど、・・・ぜんぜん歌を褒めたことになってなかった。(笑)
 それで、ここで褒めたいんですけど、合唱団のみなさん、すごく練習して、ホントに上手でしたよ。・・・「多摩教会って、こんなに人材いっぱいいるんだね〜」って感心したと思う、来た人。一つの教会の中で、あんなに大勢、・・・20人以上の合唱団が自主的に集まり、みんなでず〜っと練習を重ねて、必死に、・・・まさに必死に(・ ・ ・)歌いました。
 それは、もはや、「うまいの下手の」の話じゃない。「みんなを喜ばせたいんだ」「この教会に受け入れたいんだ」「自分たちが精いっぱいのことをして、つらい現実を生きているみんなに、少しでも笑顔をもたらしたいんだ」「それこそが、神さまのなさってることだから、イエスさまのやってることだから、私たちキリスト者も、小さくても精いっぱい、何かやりましょう」っていう、大事なのは、その動機なんです。
 広報の人なんか、新聞に折り込みチラシを入れたんですよ。で、効果があったかどうか、当日、聖堂で、コンサートの直前に、「今日、折り込みチラシを見て来た方、手を挙げてください!」って聞いてみたら、一人もいなかった。(笑) まあ、残念そうでね。「あの投資は何だったんだ〜!😭」って、その場でつぶやいてましたけど、それは、つぶやいちゃいけない。その日、そのチラシを握って、教会の前まで来た人がいたかもしれない。その人は実はウツ気味でね、「こんな私なんかは中に入っちゃいけないんじゃないか・・・」って(きびす)を返したのかもしれない。でも、来年もチラシを入れ続ければ、「今年こそは、頑張って中に入ろう!」って決心して、現れるかもしれないじゃないですか。
 そんな一人が、福音を聞き、素晴らしい歌声に感動して、「ああ、この集いに、自分は受け入れられてるんだ。これって、イエスさまが受け入れてくれてることなんだ。これって、天地の創造主である神さまが、この私を本当に受け入れて、祝福して、救ってくださってるってことなんだ」って気づいてくれれば。
 今の多摩教会、そういう、みんなを受け入れることに意地を張ってる教会としてね、頑張ってますよ。天使が空から見たら、この教会、きれいだと思う。実は天井のガラス窓のところが十字架になってるんですよね。上から見たら、光が十字架に見えると思いますけど、・・・天使から、今、皆さんが見えてるわけでしょ。集まってミサを捧げている皆さんがね。天使たち、「おお、御心に適った者たちよ!」って、祝福してくれると思いますよ。だって、多摩教会、精いっぱい、人々を受け入れようとしてますもん。「なんとか、みんなを受け入れたい」っていう神のみ心を、ささやかながら手伝っていますもん。それはやっぱり、誇りに思うべき。
 そうして、この一年の間に、受け入れられてきた人たちがここに大勢います。これこそ、神さまの愛の、目に見えるしるしとしての、教会なんですよ。こうして見ていても、目が合うと、「ねえ、あなたも受け入れられたんだよねえ・・・」って思う。感謝しましょうね。でも、それで言うなら、この私自身もまた、受け入れられたものとして、感謝したい。だって、もう、まさに受け入れられるにふさわしくないですから。「いや、神父さま、頑張っておられるじゃないですか〜」とかね、・・・そう思っていただけます? (笑) そう思うとしたら、それは、(だま)されてるってことです。(笑) 私はホントに、こんな私こそ、インチキで、受け入れられてはいけない存在であるはず。・・・でも(・ ・)、神はこの一年、この私を受け入れて生かしてくださり、この教会に受け入れてもらって、今日、このミサすら司式できる。もう、「感謝」以外、言葉がない。
 この世界はもう、「拒否」「拒否」「拒否」、「排除」「排除」「排除」で、こ〜んな世の中になっちゃっているのに、今、空から見たら、ここには美しい、「受け入れる教会」っていうものが、確かに実現して闇夜に輝いている。ぼくは、感謝したいと思います。

 今朝の新聞を読んでたら、なんか、「欧州の難民が、今年一年間で100万人を超えた」と。(※4)
 私、「100万人」っていう数、見たことがありますからね、「ワールドユースデー」(※5)で。「あれだけの人たちが難民として故国を離れたんだ!」って。・・・皆さん、リアリティー、あります? 日本を出るんですよ。二度と帰れないかもしれないんですよ。子どもを連れて、着の身着のまま。自分のこととして考えてみてください。日本を離れるんですよ。二度と帰れないかもしれないんですよ。それも、「100万人」!
 ・・・でも、それを受け入れようとしている人たちがいる。受け入れずに排除しようとしている人たちもいる。そういう現実です。
 先週、ニューヨークに行ったとき、トランプタワー(※6)の下を通りましたけど、トランプタワーの下で、今、イスラム教の人たちがね、祈っている。デモで。そういう写真も、今朝の新聞に載っていました(※7)
 なぜなら、トランプさんっていう大統領候補が、「イスラム教であるという理由だけで、アメリカに入国させるな」って言い出したからです。・・・なんという排除! そこには「人そのもの」を見る目が、ぜんぜんない。なにか、人を「人」としてではなく、勝手なカテゴリーでくくって見る。異質なものをただ排除すれば幸せになれるという、恐ろしい無知、考えられない野蛮さ。これは、イエスの教え、キリスト教の対極です。でも、このトランプさんって、自分のことキリスト教徒だと思ってるんじゃないですかね。
 その下に、別の記事があった。・・・今朝の新聞ですよ。
 ケニアのマンデラという町で、バスの襲撃があった。ここは、去年も襲撃があった所です。そこで28人殺されました(※8)。全員キリスト教徒。襲撃犯は、イスラム原理主義のテロリストですけれども、バスに乗り込んできて、イスラム教徒は助けて、キリスト教徒だけ撃って殺したんです。それは去年の出来事。
 今朝見た記事では、先日また襲撃があったときに、イスラム教徒の人たちが急いで自分たちのイスラム教の服を脱いで、キリスト教徒に着せて守った、と(※9)。・・・キリスト教徒であるというだけで殺そうっていう、なんという野蛮さ、排除の心。でも、そんな中でも、身の危険も顧みず、自分の服を着せてなんとか救おうという人たちがいる。これこそが神の歓待、受け入れようとする心でしょう。
 この場合、このイスラム教徒の人たちは、まさに「御心に適った人たち」(cf.ルカ2:14)です。イエスの友達です。もう、「何教」「何宗」の話じゃないですよね。いったい、どっちがキリスト教徒なのか。どっちが「御心に適った人」で、どっちが野蛮で、異質なものを排除しようとする、恐ろしい無知を生きているか。・・・もはや、「何教」だなんて、関係ないですよね。

 そういえば、先週、素晴らしいニュースもありました。
 マザー・テレサ、ついに列聖ですね(※10)。まさに聖人にふさわしい。イスラム教徒だろうが、ヒンズー教徒だろうが、目の前の一人の神の子を受け入れようとする。これこそ、「御心に適った人」でしょ?
 それこそが、イエスさまがなさったことですよ。真のキリスト教ですよ。「ユダヤ人だろうが、ギリシア人だろうが(※11)」、そんなもの、何の関係があるか。そこから始まったキリスト教が、もし人を排除するのであれば、もはや、キリスト教ではない。教皇さまに言わせれば、「看板を下ろせ」と。「そんなものを、キリストの教会と呼ぶな」と。(※12)

 つい、数日前、わたしが洗礼許可を出した一人の青年がいます。
 彼はこの夏、完全な闇に陥って、自分が生きていてもしょうがないとすら思って、なんとか救いを求めて、都内のあるカトリック教会を訪れたんです。大きな教会です。まあ、どことは言わないでおきましょう。・・・ともかく、「もう生きていてもしょうがない」という闇を抱えた一人の青年が、教会の門をくぐって、恐る恐る入っていく気持ち、分かりますか?
 意を決して、受付に行くと、「何か御用ですか?」って言われた。もう、それで彼はビビっちゃった。・・・「何か御用ですか?」って、・・・ねえ、歓待の言葉じゃないですよね。多摩教会だったら、見知らぬ青年が来たら、「ようこそ〜! まあ、どうぞ中へ」って、お茶が出るところですけど。
 ビビっちゃったけど、覚悟を決めて、「自分は今、すごく悩んでるんだけれども、神父さまとお話ししたいのですが」と、そう申し出た。すると、「神父さまは今忙しいので、別の機会においでください」って言われた。・・・大勢神父のいる教会なんですけどね。いつ来たらいいかを具体的に言わずに、「また別の機会に」って言うのは、日本の常識では、「もう来ないでください」っていう意味です。彼はそのとき、こう思ったんですって、「生まれて初めて、これほどに拒絶された体験をした」と。・・・もう、ぜんぜん、取り付く島もなかったわけです。
 仕方がなく、インターネットで、あれやこれや調べて、多摩教会に来ました。もう二度とあんな思いはしたくないと思ったので、前日に下見までして、ここなら傷つかずに済みそうだと判断して、日曜日のミサに来た。
 そうするとですね、ウチは、聖堂の入口で「案内係」が待ち構えてますからね、見知らぬ青年が来ようものなら、まるで子羊に飛びかかる狼のように、(笑) つかまえて、「どうぞ、どうぞ。ようこそ 🤗」と受け入れ、「これが『聖書と典礼』です。・・・これが『典礼聖歌』です。・・・こちらに座ってください」と。・・・ご存じですか? 初めての人用の専用席があるんですよ。で、その隣にピタッと座ってですね、「ここはこうやって読むんですよ。・・・さあ、ここで立つんですよ。・・・そこは唱えなくてもだいじょうぶですよ。 ・・・一緒にこの行列に並ぶと祝福をもらえますよ」と案内したわけです。で、ミサが終わったら、「軽食無料サービス券」が出て、そのまんま、信徒館の食事の席に連れていかれ、そして座って食事しているところに、案内係が神父を連れてくるシステムです。(笑) もはや逃れることができない。(笑) そして神父はすぐに面談の日を決め、飯を出し、福音を語りまくり、青年会も彼を招きいれ、青年会長が一緒に四谷まで行ってカトリック書店を案内して・・・。
 彼はこのたび洗礼を決意しました。彼は言いました、「多摩教会で、生涯で初めて、これほど無条件にもてなされるという体験をした」と。
 「生涯で初めて、これほどに拒否される体験をした」というのが教会ならば、「生涯で初めて、これほど無条件に受け入れられる体験をした」というのも教会なんです。どちらが神の「御心に適って」いるか。どちらが看板を下ろすべきか。
 これほどにひどい時代、神さまが、一人ひとりの罪びと、弱い人、傷ついている人を、なんとか受け入れようとしているという、このイエス・キリストのみ(わざ)を、私たち、キリストの教会は、少〜しでもいいから、具体的に表そうじゃないですか。
 私たちにできるはずです。・・・受け入れられたんだから。
 クリスマスは、神の歓待の日です。皆さん、ここに座っているっていうことは、もう、受け入れられたんです。今日、初めてミサに来たという方もおられるかもしれない。その人は、神さまの歓待を、今、体験していると思ってください。
 私たちは、異質な他者を受け入れるときにこそ、自らの生きている意味が感じられるようにつくられているんです。受け入れるときにこそ、真の喜びが感じられるし、そのとき、なんと、「神さまに」出会えるのです。そのことを、お忘れなく。・・・受け入れる人こそが、「御心に適った者」。

 受け入れるということに関しては、神さまは、非常に情熱的です。
 第1朗読(※13)の最後に、「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」(イザヤ9:6)とあります。
 受け入れる救い主のみ業ですよ。「そのみ名は平和の君と唱えられる」(cf.イザヤ9:5)。そのような救い主の救いのみ業、受け入れるみ業を、「万軍の主の熱意が」成し遂げます。
 私たち、カトリック多摩教会、そのような熱意ある教会として、来る新しい一年、「受け入れ教」をやっていきましょう。
 ・・・今はまだ、真っ暗闇の中にいるひとりの人が、もうすぐ、この光の中に受け入れられるかと思うと、皆さんのこれからなさる奉仕の業がどれほど尊いか、もう、その人の喜びを先取りして、感動いたします。
 「いと高きところには栄光、神にあれ! 地には平和、御心に適う人にあれ!」


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:「天上のガラス窓の日よけのシェードを、ぜんぶ開けてあるんです」

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※2:「祈りと歌の夕べ」
2015年12月23日(祝・水)開催。

 キャンドルサービス、晴佐久神父のお話で始まり、共に祈り、そして、今年設立された「カトリック多摩教会混声合唱団」が、合唱の名曲をお届けしました。その後、パーティーも開き、多くの方々と、恵みのときをご一緒することができました。
(参考)
・ 「祈りと歌の夕べ」(カトリック多摩教会HP:ご案内ページ)
・ 「オアシスが一瞬でも感じられる合唱」(このイベントの責任者のエッセイです。ぜひお読みください)
(チラシ:画像はクリックで拡大)
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※3:「モーツァルトの『アヴェ・ヴェルム・コルプス』」
◎「アヴェ・ヴェルム・コルプス(Ave verum corpus)」ニ長調、K618
 モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart/1756–1791)が、1791年6月作曲。晩年の傑作とされている。妻コンスタンツェの療養を世話した合唱指揮者アントン・シュトルのために感謝の意を込めて作曲した。この世のしがらみを超え、厳かで澄みきったこの曲は、「この地上にいる間に、天をひと目見ることができる」とさえ言われている。 混声四部合唱。演奏時間は約3分。
 もともと「アヴェ・ヴェルム・コルプス」は、聖体賛美歌で、モーツァルトだけでなく、ウィリアム・バード、フォーレなども作曲している。
【歌 詞】
Ave verum corpus, natum de Maria Virgine. 
(めでたし、乙女マリアより生まれ給いしまことのお体よ)
Vere passum, immolatum in cruce pro homine:
(人々のため犠牲となりて十字架上でまことの苦しみを受け)
cujus latus perforatum unda fluxit et sanguine.
(貫かれたその脇腹から血と水を流し給いし方よ)
Esto nobis praegustatum in mortis examine.
(我らの臨終の試練をあらかじめ知らせ給え)
Iesu dulcis,
(優しきイエスよ)
Iesu pie,
(慈悲深きイエスよ)
Iesu Fili Mariae. Amen.
(マリアの子イエスよ。アーメン)
(参考)
・ 「Ave Verum Corpus (Mozart) – King’s College, Cambridge」(YouTube)
・ 「アヴェ・ヴェルム・コルプス」(ウィキペディア)
・ 「アヴェ・ヴェルム・コルプス」(weblio辞書)
・ 「アヴェ・ヴェルム・コルプス」(世界の民謡・童謡)他
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※4:「『欧州の難民が、今年一年間で100万人を超えた』と」
(参照)
・ 福島良典(2015)「欧州への難民100万人超 ‐IOM発表 第二次大戦後で最多」、『毎日新聞』2015年12月24日(木)付朝刊 14(6)
・ 「欧州への難民100万人超 ‐IOM発表 第二次大戦後で最多」(毎日新聞 2015/12/24)<期間限定掲載:以降会員登録必要>
・ 「欧州への移民・難民、100万人超える 2015年統計」(AFP 2015/12/23)<期間限定掲載>
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※5:「ワールドユースデー」
 ワールドユースデー(WYD)は、国連が1985年を「世界青年の年」と定めたことを受け、前年1984年「あがないの特別聖年」の閉会ミサで、教皇ヨハネ・パウロ二世が、青年たちにローマへと集うように呼びかけたことに始まる。その後、毎年「受難の主日(枝の主日)」が「世界青年の日」と定められ、教皇庁信徒評議会が主催となり、2〜3年ごとに世界各地でWYDの世界大会が開催されることになった。
 次回は、来年(2016年)7月26日〜7月31日に、クラクフ(ポーランド)で開催される。
 「ワールドユースデー」や、そのクラクフ大会の詳細は、以下をご覧ください。
>>> 「2016年ワールドユースデークラクフ大会 公式日本巡礼団
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※6:「トランプ・タワー」

 アメリカ合衆国ニューヨーク市の5番街に立つ超高層ビル。高さ202メートルで58階。低層階は商用施設、高層階は高級住宅になっている。
 アメリカの不動産王ドナルド・トランプとエクイタブル生命保険の共同所有。
 このドナルド・トランプ氏は、2016年米大統領選に向けた共和党の候補者指名争いで支持率首位になっている。
 (参考)
・ 「トランプ・タワー」(ウィキペディア)
・「NYの5番街にあるトランプ・タワー(Trump Tower)」(ニューヨークの遊び方:個人ブログ)
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※7:「トランプタワーの下で、今、イスラム教の人たちがね、祈っている。デモで。そういう写真も、今朝の新聞に載っていました」
(参考)
・ 和田浩明(2015)「米で憎悪犯罪急増 ‐大統領選候補発言影響も パリ同時テロ後1カ月で例年の3倍」、『毎日新聞』2015年12月24日(木)付朝刊 14(6)
・ 「米国 イスラム教徒標的・・・ヘイトクライム急増」(毎日新聞 最終更新2015年12月23日23:08)<期間限定掲載・以降会員登録必要>
・ 「入国禁止発言 「正気の沙汰か」「迫害呼ぶ」 トランプ氏にイスラム教徒反発」(SankeiBiz 2015年12月10日07:30)
・ 「動画:米NYで移民受け入れ支持派がデモ、トランプ氏発言を非難」(AFPBB News 2015年12月12日14:13)他
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※8:「ケニアのマンデラという町で、バスの襲撃があった。ここは、去年も襲撃があった所です。そこで28人殺されました」
(参考)
・ 「イスラム過激派がバス襲撃、28人殺害 ケニア」(CNN.co.jp 2014/11/23/09:25)
・ 「武装集団がバス襲撃、28人死亡 ケニア」(日テレNEWS24 2014/11/23/09:41)
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※9:「今朝見た記事では・・・」
(参考)
・ 服部正法(2015)「ケニア 過激派バス襲撃 ‐イスラム教徒乗客キリスト教徒救う 着衣貸し選別不能に」,『毎日新聞』2015/12/24/木 朝刊 14(6)
・ 「ケニア 過激派バス襲撃 ‐イスラム教徒乗客キリスト教徒救う 着衣貸し選別不能に」(毎日新聞 2015/12/24)<期間限定掲載:以降会員登録必要>
・ 「ケニアで襲撃 ムスリム、キリスト教徒をかばう」(BBC NEWS JAPAN 2015/12/22)
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※10:「マザー・テレサ、ついに列聖ですね」
(参考)
・ 「マザー・テレザ聖人に: 教皇フランシスコがマザー-テレサ列聖に必要な奇跡を承認」(バチカン放送局)
・ 「マザー・テレサ、9月にも『聖人』に」(カトリック新聞オンライン 2015/12/21)
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※11:「ユダヤ人だろうが、ギリシア人だろうが」
(参照)

・ 「福音は、
ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです 」(ローマ1:16)
・ 「
ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになる」(ローマ10:12)
・ 「
ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えている」(一コリント1:24)
・ 「一つの霊によって、わたしたちは、
ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」(一コリント12:13)
・ 「
ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:28)
・ 「もはや、
ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです」(コロサイ3:11)
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※12:「教皇さまに言わせれば、『看板を下ろせ』と。『そんなものを、キリストの教会と呼ぶな』と」
 フランシスコ教皇は、2015年9月9日の一般謁見演説のなかで、「福音に真に従う教会は、いつも扉を開いている、もてなしの家のようになるに違いありません。閉ざされた教会や小教区、教会組織のことを、教会と呼んではいけません。博物館とでも呼ぶべきです」と述べ、教会がいつも外に向かって開かれているようにと呼びかけた。
(参考)既出
・ 「教皇フランシスコ、2015年9月9日の一般謁見演説」(カトリック中央協議会)
・ 「家庭とキリスト共同体の絆を考察、教皇一般謁見」(「バチカン放送局」2015/9/9/15:01)
・ 「教会、排他的なら『博物館』」(「カトリック新聞オンライン」2015/9/18 )
・ 「排他的なら博物館 ‐教皇 教会に『扉開けて』と要望‐」(『カトリック新聞』2015年9月20日 (2))
・ 「教会と呼んではいけません」(晴佐久神父:『多摩カトリックニューズ』 2015年9月号‐主任司祭巻頭言)
・ 「教会と呼んではいけません」(2015年9月20日説教)
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※13:「第1朗読」
2015年12月24日の第1朗読箇所
 イザヤ書9章1〜3節、5〜6節
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2015年12月25日 (金) 録音/2016年1月3日掲載
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