あと一人祈ったら

2014年6月8日聖霊降臨の主日
・第1朗読:使徒たちの宣教(使徒言行録2・1-11)
・第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(コリント12・3b-7、12-13)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ20・19-23)

【晴佐久神父様 説教】

 今日のこのミサを、中東和平のために捧げます。
 ミサの始めに呼び掛けましたけれども、教皇フランシスコが、聖地巡礼中に、イスラエルのペレス大統領とパレスチナのアッバス議長を、バチカンに招待したんですよ、「一緒に祈ろう」と。
 それが、今日、6月8日の聖霊降臨の主日午後、実現いたします。
 そして、教皇さまは、「すべての信者に、この瞬間を共にしてほしい」と強く望まれて、「霊的にこの祈りに参加してほしい」と願っておられます(※1)
 このミサはもちろん、そのためにお捧げいたしますし、その祈祷集会は「今日の夕方」と聞いております。現地時間ですから、日本ではたぶん、日付けが変わる頃ということになると思いますけど、祈りましょう。
 「自分の祈りなんか役に立たない」なんて、絶対思わないで。・・・祈りましょう!

 皆さん、心の底から真剣に祈ったことって、ありますか?
 まごころから祈ったこと。本気で祈ったこと。
 「いや~、こんな私が祈っても(かな)わんだろうな」とか、「神さま、ホントに聞いてるのかな?」とか、「祈って何になる」とかって思ってはいけません。
 まごころからの祈りは必ず通じます。そもそも、その祈り自体、聖なる霊の働きによって起こることですし、聖霊の働きは必ず、実りをもたらします。
 今日、聖霊降臨は教会の誕生日ですけど、こうして教会に皆さんが集まって祈っているこの現実に、聖霊は必ず働いています。
 私が話しているこの今も、先ほど読まれたように、ごうごうと音を立てて、聖なる霊は働いていますし、一人ひとりの心に注がれていますし、第2朗読にあったように(※2)、この「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と、言うことはできない」のです。すなわち、聖霊によらなければ祈ることすらできない。(cf.一コリ12:3b)
 聖なる霊が働いて、そのおかげで、私たちは神さまに心を開いて、「主よ」と言うことができるし、また、神の愛を信じて、お願いすることもできるんです、
 「どうか、苦しみの中にある中東に、和平を!」と。

 もう、2千年争ってるんですもんね、あそこは。
 どれほど多くの悲劇があそこで繰り返されたか。特にこの100年、ひどかったわけでしょ。一般の人は、誰ももう、あそこに平和が訪れるなんて思ってないですよ、もはや。
 血で血を洗うような争いが、ず~っと続いていて、やがてこれ、双方が最後の一人まで殺し合わなきゃ終わんないんじゃないかっていうような。
 でも、そんな出口なしの現実の中に、わざわざ教皇フランシスコが出かけて行って、そこで仲介役を買って出てるわけですよね。
 カトリック教会って、実は50年前から、とりわけこの仲介役ってのを目指しているんですね、全人類の。・・・ご存じですよね? 第2バチカン公会議で、わがカトリック教会は、「われわれはもう、単に自分たちの教会のための教会じゃない。全人類のための教会になるんだ」と、そう宣言して(※3)、あらゆる困難な現場に神さまの愛と平和をもたらすために、わが身を削ってでも奉仕すると、そういう信念と振る舞いで接してきた。
 これこそ、現代のカトリック教会の使命ですし、宣言ですし、そして教皇フランシスコは、あの方は身をもって示す(けい)ですからね、今回も素晴らしい模範を示してくださいました。
 「どうぞ、わが家にいらしてください、そこで一緒に祈りましょう」と。
 驚くべきことに、イスラエルのペレス大統領、パレスチナのアッバス議長、それ、受けたんですね。
 これ、政治的な会談じゃありません。・・・ただ「祈りましょう」って言ってるんですよ。
 でも考えてみたら、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教って、これ兄弟の宗教なんですね。
 同じアブラハム(※4)太祖(たいそ)として、世界三大一神教として、エルサレムを、ホントに聖地としている、ある意味、一番仲良くして共に祈らなくちゃならない兄弟宗教なんですよ。まあ、カトリック教会が仲介役を買って出て、「ともかく祈ろう」と言い出すのは、使命でしょう。
 そして、教皇が「祈ろう」って言い出すと、カトリックのここがまた特徴ですけども、数日で全世界の信者に伝わるんですね。教皇がそう言えば即刻バチカンから各国の教皇大使に連絡がいき、教皇大使がその国の司教団に伝え、各司教から教区の全教会にお触れが出て、そしてこうして多摩教会でも「至急のお知らせ」として、伝わっている。まあ、全世界のカトリック信者12億人全員は無理としても、「億」っていうオーダーで祈ると思いますよ、今日。
 祈りの力を全世界に知らしめようではありませんか。「祈って何になるか」なんて、絶対思っちゃいけない。頭で考える日じゃないんですね、「聖霊降臨」っていう日は。(※5)
 今日は、考えずに祈る日です。「考えるな、感じろ」っていうブルース・リーの名セリフがありますけど(※6)聖なる霊は、今、私たちの心に働いていますし、それを、あれこれ考えるんじゃなくて、魂の世界に感じて受け止めて、「私たちの祈りで世界が変わる」っていうような、そんな使命感を持って祈っていただきたい。
 「本気で祈る」っていうことを、今日は実現いたしましょう。

 何日か前に相談に来られた方ですけど。もう2年近く相談に来てる方ですが、「自分はダメな人間だ、自分なんかは存在しない方がいい」、そういう思いに時々襲われて苦しくなる方です。
 その方が、なんとこんなこと言ったんです。
 「神父さま、すみません。実は、先日、あまりに不安になって、駅前の占い師の所で、相談してしまいました。しかも、その占いの答えがとてもつらい内容だったので、余計に不安になってしまいました。自業自得ですけど、苦しいんです」
 だから私、
 「そうでしょう?」と。
 「あなた、天下の晴佐久神父の所へ、(笑)こんなに何度も相談に来て、こんなに一緒に祈ってきたのに、占い師の所に行くなんて。・・・だいたい、いくらしたの?」って言ったら、(笑)
 「4千円」って言うんですよ。
 高くないですか? 4千円って。ついつい、「ここ来れば、タダなのに! 4千円あったら、おいしいワイン買えるじゃないですか!」って思わず余計なことも言いつつ、彼女には、ちょっと厳しい言い方をいたしました。
 「あなたは、本気で祈ったこと、ないんじゃないの?」と。
 だって、その占い師のとこ行っちゃったのも、「心がもう、ものすごく揺れて、どうしようもなく不安になって、ついつい」とか言うんで、でもまさに、「そんなときこそ、本気で祈れよ」ですよね。
 たぶん、祈りを信じてないから、本気になれないんだと思う。
 その証拠に、「でも、じゃあ、そんなときに、何かいい呪文みたいなの、ありますか?」(笑)って聞くんです。
 これを唱えりゃ必ず効く、みたいな、楽して効果を求めるのが、本気でない証拠。
 「本気だったら、どんな言葉でも構わない。本気かどうかが問題だ」と、そう申し上げました。
 「そもそも、晴佐久神父の『十字を切る』(※7)っていう本を読んだんでしょ、あなたは。どんな呪文唱えるよりも、まずは十字切りなさいよ。あなたの問題は、本気で祈ったことがないってことにある。心から、本気で。それが問題だ」と。
 「本気で祈るなら、十字ひとつ切っただけでも、『もうこれで、神さまと私は、ちゃんとつながっている』という究極の安心が生まれるはずです。そんなの頭で考えることじゃない。魂の世界で神を感じて、まごころから、きっちり十字を切ればいいんです。
 『神は私を愛している』という縦の線、
 『聖なる霊が私を守る』という横の線、
 その縦と横の線が交わる真ん中にイエスがいて、その交点に今十字を切っているあなたがいて、そこに救いが実現しているんでしょ? つまらない呪文を求めるより、ちゃんともう一回、読みなさい」
 ・・・そう申し上げた。
 「本気で祈る」
 これはやっぱり、チャレンジする価値のあることですし、今までもし、「本気で」祈っていないならば、「じゃあ、もしも本気で祈ったらどうなるだろう・・・」って、ちょっとワクワクしませんか? あまりにも私たち、頭でっかちになってるから、そして、恐れの感情にとらわれすぎているから、なんか、魂の世界で「本気になる」っていうような体験を知らないのかもしれない。
 「本気で祈る」・・・やってみましょうよ。

 先週の月曜日に、「お茶の水クリスチャン・センター」っていう所で礼拝説教をしました。(※8)
 「お茶の水クリスチャン・センター」ってのが、御茶ノ水駅前にあるんです。キリスト教の本屋さんもあって、そこの4階のチャペルで礼拝説教でした。
 「ここで礼拝説教をするカトリックの神父は初めてです」って言われて、私、「初めてです」って言われると、すごく燃えるたちなんで。(笑)「よっしゃ~♪ やってやろうじゃないか」みたいな。
 プロテスタントの方たちとああいう場を持つのは、なんか私、最近好きです。こんな言い方するのもなんですけど、プロテスタントの方たち、結構本気で祈るんですよね。・・・いや、カトリックの皆さんも、本気で祈ってると思いますよ。(笑)・・・思いますけど、彼らの、何て言うんでしょう、「純粋な本気さ」って言うのかな、あの熱い感じ、・・・好きです。
 そもそも、礼拝始める直前に、主催者と聖書朗読の人が来て、
 「それでは、よろしくお願いします。3人でお祈りしましょう」
 って、そこでもう祈り始めるんですよ。・・・ああいうの、いいですね。
 「天の父なる神さま、どうぞ私たちを用いて、良い礼拝が持てますように・・・」みたいなね。
 で、また、説教中の反応も、とっても素朴で純粋で。ご存じですか、説教中に信者さんが「アーメン!」って言うんです。たとえば、こう、説教が盛り上がって、
 「神さまは、愛するわが子を、一人残らず救ってくださるに決まってるじゃないですか、そうですよね?」
 ・・・みたいに言うと、あちらこちらから、「アーメン」「アーメン!」って声がかかるんですよ、信者の皆さんから。
 あれですね、コンサートの「ブラボー!」みたいな。・・・いや、「ブラボー!」は全部終わったときか。あれだ、歌舞伎で大向こうをうならせるって感じ。(笑) 役者が盛り上がって見得切った時に、「晴佐久屋!」みたいな。(大笑)
 でもね、そうして「アーメン!」って言われると、こっちもまたさらに盛り上がるっていうか、信じる熱い思いが倍増するというか。「ああ、今ホントに聖なる霊が働いて、みんなを一つにしているなあ・・・」って感じられるし、ああいうときって、なんかこう、頭で考えていろいろ話すっていうよりも、あるいは、あれこれ聞いて頭で理解するっていうよりも、何か、大いなる霊の中で私たちが一つになれているっていう実感、喜びがあって、これがやっぱり宗教でしょう?
 ・・・私たち、「宗教」やってるんですよね? そりゃあ、イエスから離れた熱狂は危険かもしれないけど、だからといって、聖霊の働きによる、あの熱いものを忘れちゃったら、まして本気で祈るなんてことを信じられなくなっちゃったら、もう、何でしょうね、キリスト教の意味がなくなっちゃう。

 先々週の、上智の講演会も、そんな感じでした。(※9)
 上智101周年の講演会でしたけど、満員でね。聖ヨハネ・パウロ2世教皇と、教皇フランシスコについて好きなだけしゃべりまくった。そうして神の愛を語って、霊的に乗ってくるとね、「ああ、聖霊働いてるな」っていう感じがあるし、そういうときって不思議に心が通じ合って、講演中、なんと拍手が起こったんですよ。
 講演会が終わって拍手を頂いたことはいくらでもありますけど、話してる途中で拍手ってのは初めてです。何回か、拍手が起こったんですよ。まさに「アーメン!」って感じで。
 ああいうのって、こう、ひとりの司祭が話してるとかじゃなくって、神の言葉をみんなで共有している、喜びの瞬間なんですね。言ってることは単純なことなんだから、内容を理解した喜びじゃない。その素晴らしい内容をみんなが共有して、そこにその内容が実現したっていうような喜び。
 語り手が「今ここに、神さまの愛が実現している」と言い、聞き手が「その通りだ、私たちはそれを体験している」と。・・・そのような霊的な一致の中でこそ、キリスト者は生きているんです。
 時々、私たちはこの聖霊の働きに、みんなでホントに心を開いて、それこそ忘我っていうか、我を忘れるような霊的一致の時間を持つべきじゃないか。
 その上智の講演会、隣のイグナチオ教会には、「カリスマ神父来たる!」っていうポスターが貼られてたって(笑)聞きましたけど、その「カリスマ」って、先ほど読んだ所ですね、第2朗読、もう一回読み直していただきたい(一コリ12:3b~7、12~13)
 「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」(一コリ12:3b)
 これ、たとえば、説教するんでも、
 「イエスは主である」「神は愛である」、そういう福音って、聖霊によらなければ言えないわけですけど、その後に、「賜物にはいろいろありますが」(一コリ12:4)ってありますね。この「賜物」、『聖書と典礼』の欄外に解説が書いてありますので、お読みください。(※10)
 「カリスマ」ですね。この「賜物」が「カリスマ」。つまりこれ、皆さん、もらってるんですよ。
 聖なる霊が皆さんに与えている力のことです。
 その人ならではの、神が与えた特別な才能のことです。
 すべての人にあります。
 全員、持ってます。
 私なんかが「カリスマ」とか言われるのは、なんだか申し訳ないような気がすると同時に、考えてみたら、むしろ、そうでなきゃならないとも言える。すべてのキリスト者はカリスマ信者でなければならない。そのカリスマは、自分勝手につくり出すものじゃない。「神から」来るものです。
 たぶん私が褒められていいと思うのは、自分の力がどれほどなくても、そのカリスマを信じる力がある。自分の才能はなくとも、聖なる霊の働きは信じる。その信じ方においては、やっぱり、褒められていいと思いますよ。もっとも、そう信じなくちゃやっていけないですしね。実際、神父としていろんな困難に向かい合ってくると、聖なる霊の働きしか、残らなくなるんです。

 今の中東が望んでるのも、まさに、それなんじゃないですか?
 政治的な折衝で、平和をもたらす。・・・それはそれですごく大事なことです。政治家のために祈りましょう。しかし、人間の才能、人間の努力、人間の愛だけで、本当に解決できるのか。
 最も大切なのは、「カリスマ」です。聖霊の働きです。
 これはペレス大統領も持っているし、アッバス議長にも注がれている。そして何よりも、フランシスコ教皇のうちに働いたカリスマが、「一緒に祈ろうよ」って言い出す。これが、聖なる霊の働きだし、人の力を越えて「祈りの力」に信頼する、これこそまさに、今日、聖霊降臨にふさわしい出来事だと言うべきじゃないですか。
 第2朗読には、「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです」って、7節にありますね(一コリ12:7)。そして、13節にはなんと、「わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと」と、ある(一コリ12:13)。中東の場合は、「ユダヤ人であろうとパレスチナ人であろうと」っていうことですよ。
 「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらった」(一コリ12:13)
 ・・・「その洗礼式が、今日、この世界に実現するんだ」って、そう信じませんか?
 「もう無理だよ、あそこは諦めよう」って思わずに、私たちが、この「霊」さえ働けば、必ず私たちのうちに救いは来ると、そう信じませんか?
 その信仰を、その祈りを、教皇さまは求めておられます。

 今日、聖霊降臨の主日、イエスさまから、「あなたがたに平和」っていう息を吹きかけていただきましょう。
 そして、イエスさまがこの全世界に、「あなたがたに平和」(cf.ヨハネ20:19)って、聖なる霊の息を吹きかけてくださる日にしましょう。それが、私たちの祈りによって実現すると、そう信じます。
 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。聖霊を受けなさい。あなたがたが赦せば、その罪は赦される。赦さなければ、赦されないまま残る」(cf.ヨハネ20:21~23)
 これこそが、皆さんの、今日の使命です。
 皆さんが、身近なあの人、この人を赦さなければ、中東に和平が訪れるはずがない。しかし、私たちが赦し合えば、その夢は実現します。
 一日くらい、こうちょっと、聖霊の働きに心を開いて、祈る日に致しましょう。
 今日の夜、必ず祈ってくださいよ。忘れないでくださいよ。
 つまらんバラエティー番組見て、(笑)「アハハ」なんて笑ってないで。
 もしかして、あと一人(・ ・ ・ ・)祈ったら中東に和平が訪れるかもしれないのに、その人が祈らなかったから訪れなかった・・・なんてことがあったら、どうしますか?
 教皇さまは、その祈りを求めておられます。
 イエスさまが、その祈りを求めておられます。
 神さまが、その祈りを求めておられます。
 そのための聖霊降臨です。

 「聖霊来てください。
 信じる私たちの心を満たしてください。
 あの苦しんでいる中東に、まことの平和をもたらしてください」
 ・・・まごころから祈ります。


【 参照 】

※1:「教皇さまは・・・願っておられます」
 教皇の、この願いを受け、駐日教皇大使のジョセフ・チェノットゥ大司教は、6月6日付で「至急のお知らせ」として書簡を出し、司教、修道者、そしてすべての信者に、この中東和平へのたまものを願う祈りに、霊的に参加するよう呼びかけられました。また、すべての善意の人にも、共に祈ってほしいと語られています。
 この大使書簡全文は、「8日に中東平和の祈りを」:教皇庁大使(カトリック新聞オンライン)からお読みいただけます。
 また、同様の記事は、「教皇、6月8日にイスラエル・パレスチナ両大統領と平和への祈り」(バチカン放送局)から読むことができます。
 フランシスコ教皇からは、ツイッターで呼び掛けもありました。
 以下は、6月7日、8日付けのカトリック中央協議会による「教皇フランシスコ邦訳リツイート」です。 
教皇フランシスコの邦訳リツイート(カトリック中央協議会)より
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※2:「第2朗読」
・ 本日(2014年6月8日〈聖霊降臨の主日〉)の第2朗読箇所
   「使徒パウロのコリントの教会への手紙一」12章3b~7節、12~13節)
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※3:「第2バチカン公会議で、わがカトリック教会は、『われわれはもう、単に自分たちの教会のための教会じゃない。全人類のための教会になるんだ』と、そう宣言して」
 特に、第2バチカン公会議 (1962~1965年) で発表された公会議文書、『教会憲章』 (1964年公布) で、それを読むことができる。
 『教会憲章』では、「教会は救いの普遍的秘跡である」という見地から、「すべての人」の救いについて述べている。
(参考)
・ 「カトリック教会憲章」(表具すがの)
・ 「カテキズムを読もう」(Laudate)
・ 第二バチカン公会議については、「聖霊に聞き従って」(2014年5月4日<復活節第3主日>説教)の【参照】※10など
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※4:アブラハム
 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教を信じるいわゆる聖典の民の始祖。
 旧約は「多くの人の父」との音と似ていることから、「諸国民の父」と解され (創17:5) 、人物像は創世記11:10~25:11に見ることができる。
 旧約の偉人同様、彼も人間的な弱点をもっていたが、「聴従の人」 (12:1~4) 、「平和主義者」 (13:5~) 、「とりなす義人」 (18:16以下) などの模範的像姿を見せるため、「信仰の父」とも呼ばれる。また、ことに、神から祝福された原族長(アブラハムの契約)のイメージが際立つ。
 ユダヤ教の教義では全てのユダヤ人の祖とされる。
 またイスラム教の教義では、ユダヤ人に加えて全てのアラブ人の系譜上の祖、また、神の祝福も律法(戒律)も彼から始まり、モーセやイエスをしのぐ一神教の祖とみなされている。
 キリスト教の正教会においてはアウラアムと称され、聖人に列せられている。
(参考)
・ 「アブラハム」 2008『岩波キリスト教辞典』(岩波書店)
・ 「アブラハム」(ウィキペディア)
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※5:「聖霊降臨」
 主の昇天(復活後40日目)の後10日目に、主の預言どおり、聖霊が使徒たちに現れ、使徒たちは聖霊に満たされて、「霊」が語らせるままに、他の国々の言葉で話しだした。 (使徒2:1~4)
 ここに原始キリスト教会の成立と、使徒たちの宣教の始まりを見ることができる。
 詳細は、以下などをお読みください。
(参考)
・ 「聖霊降臨」(カトリック中央協議会)
・ 「聖霊降臨の出来事」(Laudate-「キリスト教入門」-「聖霊講座」)
・ 「聖霊降臨の主日」(Laudate-「教会カレンダー」)
・ 「聖霊降臨」(Laudate-「山本(襄治)神父入門講座」) など
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※6:「考えるな、感じろ」
 カンフー映画『燃えよドラゴン』(アメリカ・香港合作/1973年公開)の劇中冒頭での、ブルース・リーのセリフ。( “Don’t Think. Feel!” )
 考えることではなく、感覚で捉えよ、本質を見よという意味で使われる。
(参考)
・ 「考えるな、感じろ」<該当動画も見ることができます>(タネタン/あらゆる元ネタ、由来を集めるサイト)など
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※7:『十字を切る』
 2012年10月25日初版発行の晴佐久神父著書。
 最強最短の「十字を切る」祈りに導きます。
 その祈りの豊かさ、深遠さ、素晴らしさを知り、また、十字を切って祈る幸いを味わうために、ぜひご一読をお勧めします。
 ・ 出版社:女子パウロ会
 ・ 価格:1,404円(税込み)
 ・ 判型:四六判 / 並製 / 218ページ
 (「福音の村」のサイト内でも、ご紹介をしています。>>>晴佐久神父 既刊紹介『十字を切る』
 ご購入は、女子パウロ会オンラインショップAmazon楽天ブックスなどでどうぞ。
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※8:「お茶の水クリスチャン・センター」
 「宗教法人 お茶の水クリスチャン・センター」
住所: 東京都千代田区神田駿河台2-1
ホームページ:「お茶の水クリスチャン・センター」(OCC)
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※9:「先々週の、上智の講演会」
 5月25日(日)14:00~16:00、上智大学で、晴佐久神父の講演会がありました。
 (2014年度ASF〈All SOPHIANS’ FESTIVAL〉オールソフィアンの集い)
 講演の内容は、「教会は野戦病院であれと語る教皇フランシスコについて」。
 参考 >>> 晴佐久昌英神父講演会のお知らせ 5月25日(日) <ソフィア会>
 下の画像はその時の様子です。クリックすると、拡大表示されます。
 晴佐久神父講演会@上智大学(オールソフィアンの集い)
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※10:「『聖書と典礼』の欄外に解説」
 以下は、「欄外の解説」に当たる、2014.6.8『聖書と典礼』「聖霊降臨の主日A年」p.5の該当箇所です。
・ 賜物
 ここで「賜物」と訳されているギリシア語の「カリスマ」は、聖霊によるさまざまな能力のこと。
 7節の「“霊”の働き」も同じ。優れたことばを語ったり、病気をいやしたり、奇跡を行ったり、預言や異言を話す力などを指す。(一コリ12:8~10参照)。
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2014年6月8日 (日) 録音/2014年6月15日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英