本来の楽園の高次の回復

【カトリック浅草教会】

2016年4月24日復活節第5主日
・使徒たちの宣教:(使徒言行録14・21b-27)
・第2朗読:ヨハネの黙示(黙示録21・1-5a)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ13・31-33a、34-35)

【晴佐久神父様 説教】

 そうしてまた一週間がたって、だいぶ、浅草橋にも慣れましたよ。スーパー「ライフ」のポイントカードも、着々とたまっております(※1)。(笑) 今日、日曜日が、確かポイント3倍でしたかね〜。(笑) でも、日曜日に行けない。・・・なかなか忙しくてね、残念です。「誰か、買い物行ってきてくれませんか?」って言いたいくらいですけれど。(笑)
 スーパーも便利ですけど、実をいうと、地図を見てたら、すぐそこに「おかず横丁」(※2)っていうのがあって、(笑) 私、「これはいい、お惣菜(そうざい)買って、これからはおかず横丁のお惣菜で食べつなごうと思って行ってみたら、お店が何にもなかった。(笑) いわゆる「シャッター商店街」みたいになってて。「これ、今日はお休みの曜日なのかな?」と思って、一番手前の魚屋さんに、「あの、商店街、今日は定休日なんですか?」って聞いたら、「いやあ、みんな閉じちゃったんです」って、寂しそうに言っておられました。もう明らかに、「ライフ」のせい(笑)・・・じゃないですかねえ。

 この世って、便利な方、楽な方、快適な方に、どんどん流れていくけれど、やっぱりみんな、心の底でね、「これでいいのか?・・・これでいいはずはない!」って思っちゃあいるんですよ。思っちゃいるんだけど、新しい方に()かれてしまう。「新商品」といえば、つい手に取ってしまう。
 私たち、この世の新しさ、新しい快さに(すが)り付いて、そればっかり追っかけてますけど、それでみんながホントに幸せになるかっていうと、決してそんなことはないと、分かってはおります。分かっているのにどうしても追っかけてしまう。じゃあ、どうすればいいのか。
 キリスト教的にいえば、「本当の新しさ」、これに信頼を置いて、それをこそ求めよと、そういうことでしょう。
 ・・・今日の三つの聖書(※3)のテーマですね、「本当の新しさ」。

 確かに、「スーパー『ライフ』が便利だ」って、それを求めますけど、でも、仮にもっとステキなスーパーがもっと近くにできたら、今度はそっちに行くわけですよね。資本主義社会は、そうやって欲望を転がしながら、どんどん前のめりに膨れ上がってきました。
 今新しいものは、やがて古くなる。この世の真理です。
 しかし、そのような、やがて古くなってしまうようなものを、キリスト教は、「新しい」って呼ばないんですね。
 キリスト教の新しさは、「決定的」です。
 イエスが古くなって、「新しいイエス」が来るか。・・・そんなこと、あり得ない。
 神の国も、やがては飽きられて、更なる「第二の神の国」が来るのか。・・・そんなこと、あり得ない。
 われわれが求めて、信じて、そして現に体験し始めているのは、「決定的な新しさ」です。「神さまが、無から、この世界をおつくりになった」というくらい決定的な新しさが、今、イエス・キリスト以降、現実に起こってる。これを「新約」という。・・・新しい時代、それは、古くならない。
 神学的にいうと、この新しさは、「今までのものがまったく意味がなくなって、今度はこう変わりました」っていうような、革命的な新しさじゃないんですね。だって、そういうものは、また次の「革命的新しさ」に取って代わられちゃう。むしろ、最も本来的なものが、その「本来」以上に、きちんとした完成形で現れること。・・・これが、キリスト教の「新しさ」です。
 神話的に言うならば、私たち、楽園にいたのにね、失楽園(※4)しちゃったわけでしょう。それがなぜかは置いとくとしても、私たちは楽園で本当の喜びを生きるように望まれていたはずなのに、なぜか今は罪と悪にとらわれて苦しんでいる。罪とか悪って、要するに神さまの本当の素晴らしさが見えないでいる「とらわれの状態」なわけですけれども、イエスさまがそれを吹き払って、「本来の楽園」を回復してくださったというのが、福音ですね。
 今、私たちが捧げているミサなんていうのは、もう、その「本来の楽園」を、よりいっそう完成形で神さまがお始めになっている、それを一緒に体験し始めているんだ、と。・・・これが真実です。これはもう、「やがてそれも飽きられる」なんてことは、絶対あり得ない。

 今日も、つい先日肉親を亡くされた方が来られています。大切な肉親を亡くしてですね、悲しいかっていうと、まあ、それはそうかもしれない。でも私は、その葬儀ミサで、はっきりと申し上げた。
 「彼は、本来あるべき楽園に、今、この世という準備期間を経て、生まれ出ていったんであって、われわれも、みんなそこに生まれ出ていくんであって、そこが、私たちの究極の目的地です。そこに、もうあなたのご家族は生まれ出ていったんですよ」と。・・・「私たちも、やがてそこに生まれ出ていくんですよ」と。
 その「本来」っていうやつをね、ぼくらは忘れかけているときに、イエスさまが、ちゃんとそれを取り戻してくれた。
 「この(おきて)を守れば救われる」だとか、「こうしなければ滅びちゃう」とか、なんか、そんなふうに縛られていた、神から離れていた人たちに、本来、あなたたちは神の子で、みんな楽園の住人であるはずであって、そこに、私たちは向かってるんだ。いや、もう、そこが始まったんだ。・・・なんかそういうことを、イエスが、本当の新しさ、決して滅びない完全なる新しさをもって語ってくれた。
 私たちは、それに信頼します。人間は、そういう本来の神さまのみ(わざ)に立ち返るとき、最も新しくされるんですよね。

 柄谷行人(からたにこうじん) (※5)っていう、思想家を知ってますか?
 なかなか難しい本なので、読まない方も多いかもしれませんけれども、私が最も尊敬する、日本の現存の思想家ですね。縁あって親しくさせていただいていて、今書いておられる原稿に私の説教から引用したりするくらいですけれども、私の所に、昨日、新著が届きました。岩波新書でしたかね。新刊本です。サインまでしてね、送ってきてくださいました。『憲法の無意識』(※6)っていうタイトルの本です。ぜひお読みになったらいいと思います。・・・『憲法の無意識』。
 これは、まあ、憲法9条のことを書いてるんですけども、その憲法9条は、人間が「意識で」生み出したようなものではなくて、もっと「無意識的なもの」からきている。だから、人々は、決してこれを変えられない。無意識で変えようとしないでいる。・・・欲得や打算の表層の部分じゃないんです。本来的に大切なことを、みんな無意識で感じ取っていて、この憲法も実はそこから生まれてきている。
 で、それは、「アメリカから与えられたものだ」って言われてますけれども、まあ、確かにそういう面はある。でも、本当はもっと超越的なところから与えられたものなのであり、「『与えられたもの』だからこそ意味がある」と、私の読み方ではそう書いてある。
 ・・・私、はたと思った。
 今日、イエスさまが、「あなたがたに新しい掟を与える」って言ってましたけれど(ヨハネ13:34)、私たちが、「自分で生み出したもの」「自分たちで決めた掟」、これはもう、どんどん変わっちゃうものだし信頼できないんですよ。私たちが、「これが新しいお店だ」「これが新しい商品だ」なんて言ったって、そんな人間がつくり出した「新しさ」なんて、すぐ古くなっちゃう。「与えられたもの」こそが、常に新しく、もっとも尊く、永遠に意味がある。
 ・・・キリスト教は啓示宗教ですから、「神から愛と恵みを与えられる」「神から存在と命を与えられる」、そう信じます。この、「神から」与えられた本来的なもの、これこそが尊くって、われわれを救う。
 無条件に他者に贈与することで、真の新しさを生み出すキリスト教の本質。
 ・・・「憲法第9条」にもどこかそのような、聖なる香りがする。

 私たちは、決して戦争をしない。人を殺す道具を持たないという、新しい掟。
 「いや、正当防衛くらいはしょうがないだろう」って、よく言われるけれども、イエス・キリストは「正当防衛」しなかった。そして、まさにそこから、キリスト教は始まる。
 ペトロが剣を取ったら、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(cf.マタイ26:52)と主は宣言して、「わたしは十字架につく」(cf.ヨハネ18:11)と。(※7)
 これは、究極の、神の愛の表れです。ちょうど、子どものために身を捨てる親の親心ですよね。「わが子のためなら、もう、この命、捨てても構わない」っていう、そんな神さまの本来の愛、無条件の愛に、イエス・キリストが目覚めさせてくれた。そんな完全な救いの世界を、十字架によって、復活によって、(あか)ししてくれた。それで私たちは、本来の愛に「立ち戻れた」んです。恐れて、(おび)えて、「こんな私、愛されないんじゃないか」って疑っている世界から、救われたんです。
 この新しさは、やっぱり、決定的な新しさであって、もう、それは変えることができない。元に戻ることがない。

 「ヨハネの黙示」で、ヨハネが、「新しい天」「新しい地」を見てます(黙21:1)。もう、この「今の天」と「今の地」は、去っちゃった(※8)。・・・そんな状態ですね。まあ、その新しい天地こそが、実は本来いた楽園だったわけですけども、それが、この今の天地という産道をくぐったうえで、決定的にやって来る。
 柄谷行人さんの思想に、こんな言い方がある。
 「本来のものの高次(こうじ)の回復」
 これこそが今始まっていると。それこそが望まれてるんだ、と。「高次」っていうのは、「高い次元」ですね。本来のものが、ただ戻ってくるんじゃなくって、本来のものが、いっそう高い次元で回復されること。
 楽園が、今、この混沌とした生みの苦しみを超えて、「本来の楽園」として、しかも、この苦しみを経た上での、生みの苦しみを抜け出た上での、究極の楽園として誕生し始めている。
 「高次の回復」っていう表現を、日本のトップの思想家が提示している。「これ、キリスト教だなあ・・・」と、私、つくづくと感心もいたしました。このヨハネが黙示しているのは、そのような高い次元で、ついに回復する新しい世界。その世界では、「神が自ら私たちと共にいて、まことの親として」・・・私に言わせればね、「まことの親」として、抱き締めてくださって、「彼らの目の涙を、ことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからだ」(cf.黙21:3-4)
 この世界、今、私たちは、「悲しみ」も「嘆き」も「労苦」も経験しておりますけれども、これは、本来の楽園が高い次元で回復して、決定的に神さまのみ業が輝き出る途中なんですよ。プロセスなんです。今、そして、決定的な段階が始まってるんです。
 ・・・この「新しさ」が、われわれの希望です。

 今日、午後3時に、上野教会の方でご遺族との話し合いがありますが、昨日、息子さんが亡くなったというお母さまからの電話で、・・・上野教会の方ですね。元気だったのに、突然に近いかたちで意識を失って、長いこと病院にいましたけれども、また急変して、昨日亡くなった。お母さまの、その悲しみは、いかばかりか。想像するも切ない。・・・ですけれども、今、聖書を読めば、神のみ言葉として、
 「そのとき、もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(黙21:4)
 よくご葬儀に読まれるとこなんですよね、ここ。・・・こういう福音を、なんとかお母さまにもお伝えしたい。やがてみんな、天での再会なんだと、先週もそういうお話、しましたけれども(※9)、そのことを、お母さまにお伝えしなければなりません。

 玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と、そうおっしゃった。(cf.黙21:5a)
 ・・・イエス・キリストと共に始まった「新しさ」です。
 安心して、信頼して、もう、古いものにとらわれることなく、今まで自分を縛ってきた、閉じ込めてきた、苦しめてきた、「悪」「罪」「闇」からですね、解放されるときです。聖なるミサは、そのようなときですね。
 イエスさまが、はっきりと言った。
 「あなたがたに新しい掟を与える」(ヨハネ13:34)
 イエスさまが、殺される前の晩の遺言として残した言葉です。その言葉は、その翌日、神さまの究極の愛として、十字架上で実現いたします。
 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。これが、わたしの新しい掟だ」(cf.ヨハネ13:34)
 「わたしがあなた方を愛したように」っていうのは、もうホントに、わが子のためなら命も捨てるというような親の愛。なんの見返りもいらない。正当防衛すらしない。徹底して、どこまでも愛する。罪びとであろうが、極悪人であろうが、徹底して愛し続ける。・・・神さまが、そのような愛を、私たちに見せてくれた。
 私たちは、それを知って、感動し、感謝し、安心して、この方を信じる。そして、ホンットにささやかながらの、同じような愛を、チラリとでも、私たちが持てたとき、証しできたとき、そこに本当に、「高次で回復する楽園」が現れる。・・・そういう楽園の到来に、私たちは協力する。
 ささやかでいいんですよ。チョットひと言、親切にしてあげようとか、チョット我慢しようとか、チョットゆるしてあげようとか、この「チョット」ってやつが大事ね。「いっぱい」はできないでしょ?・・・「チョット」でいい。それを私たちが経験するとき、「楽園は高次で回復している」という目に見えるしるしになるんです。
 ・・・「新しい掟」を私たちは生きてまいります。

 今日、昨日亡くなられた方の、そのご遺族のためにお祈りください。
 先週、ご葬儀をなさったご家族も、このミサに来ておられますけれども、その方のためにも祈ります。
 私たちは、「新しい天と新しい地」を生きて、「もはや悲しみも嘆きも労苦もない」という、「もはや死はない」という、そのような世界の証し人になります。(cf.黙21:1〜4)
 ・・・もはや、私たちの目に、涙が浮かぶことはない(cf.黙21:4)。
 たくさんの涙を、被災地でも流している方がおられますけれども、私たちは、今日の神のみ言葉に信頼を置きます。
 「見よ、わたしは万物を新しくする」(黙21:5a)
 ・・・今日、私たちも新たにされますように。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:「スーパー「ライフ」のポイントカードも、着々とたまっております」
 晴佐久神父は、本年(2016年)1月10日付で、「浅草教会・上野教会主任司祭」としての赴任が決定し、4月2日(土)、
3日(日)の主日のミサを最後に、カトリック多摩教会から異動した。
 この日の一週間前、4月17日(日)が、カトリック浅草教会着任後、最初のミサとなった。〔参照>「永遠のライフ」(「福音の村」2016/4/17説教)〕
 その際の説教で、「歩いて2分半の好立地にスーパー『ライフ』がある」と語られている。〔参照:上記説教>「【参照】※2 」〕
・・・< 文中へ戻る

※2:「おかず横丁」
 浅草教会は、「おかず横丁」と、スーパー「ライフ」のちょうど中間に位置し、それぞれ徒歩3分ほどの距離。
  (下の地図には、「おかず横丁」〜「ライフ」までが「徒歩6分、500m」と表示されている)
 
◎「おかず横丁」
 東京都台東区鳥越1丁目の鳥越本通りにある230メートルほどの商店街、「鳥越本通商盛会」の通称。
 日用品や、惣菜店などの食品を扱う店の多い商店街として発展した。
 鳥越は、第二次世界大戦以前から町工場の多い軽工業の町で、共働きも多く、この横丁で便利な「おかず」を買い求めていく人たちによって、繁盛するようになった。
 横丁は歩行者天国で歩きやすく、現在は、昭和レトロファンやB級グルメファンなども訪れるという。
 ↑上の地図はクリックすると拡大します
   詳細な周辺地図は、>こちら をクリックしてください。
(参考)
・ 「おかず横丁」(公式サイト)
・ 「御徒町駅周辺のおすすめ観光スポット5選」(ファイントラベル)
・ 「おかず横丁」(Yahoo!「ロコ」/口コミ、写真など)
・ 「おかず横丁」(フォートラベル/口コミ、写真など)、その他
・・・< 文中へ戻る

※3:「今日の三つの聖書」
 通常、主日のミサでは、
第一朗読、第二朗読、福音朗読と、聖書から3カ所が朗読される。(詳細は>こちら
 この日2016年4月17日(復活節第4主日)の朗読箇所は、以下のとおり。
 ☆第一朗読
   使徒言行14章21b〜27節
    〈小見出し:「パウロたち、シリア州のアンティオキアに戻る」14章21〜28節から抜粋〉
 ☆第二朗読
   ヨハネの黙示録21章1〜5a節
    〈小見出し:「新しい天と新しい地」21章1〜8節から抜粋〉
 ☆福音朗読
   ヨハネによる福音書13章31〜33節、34〜35節
    〈小見出し:「新しい掟」13章31〜35節から抜粋〉
・・・< 文中へ戻る

※4:「失楽園」
◎失楽園 [英]Paradise Lost
 人類の始祖アダムとエバが蛇にそそのかされて「善悪を知る木」の実を食べたために、エデンの園を追放される創世記2〜3章の物語(エゼ28:12-19に類似の伝承)
 この物語は広く人類の堕罪物語として読まれ、原罪の教理がここから導き出されてきた。(エズ・ラ7:118;ロマ5:12他)。しかし物語は「罪」という語を用いず、むしろ人間が神のように賢くなることを問題とする(創3:5-6、22)。その他、この「失楽園」においては、さまざまな考察がなされている。
(参考)
・ 「失楽園」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008)ほか
・・・< 文中へ戻る

※5:「柄谷行人」
◎柄谷 行人 (からたに こうじん、1941年8月6日-)
 日本の哲学者、思想家、文学者、文芸評論家。本名は、柄谷義男。兵庫県出身。
 1965年、東京大学経済学部卒業。1967年、同大学大学院英文学修士課程修了。1969年、『〈意識〉と〈自然〉 漱石試論』で、第12回群像新人文学賞を受賞後、文芸評論家として出発。イエール大学客員教授、法政大教授、近畿大教授、コロンビア大客員教授などを歴任し、批評誌『季刊思潮』『批評空間』を創刊。『マルクスその可能性の中心』(1978年/亀井勝一郎賞)、『坂口安吾と中上健次』(1996年/伊藤整文学賞)、『定本 柄谷行人集』全5巻(岩波書店、2004年)、『世界共和国へ』(岩波新書、2006年)『世界史の構造』(岩波現代文庫、2015年)など著書多数。
(参考)
・ 「柄谷行人」(公式ウェブサイト)
・ 「柄谷行人」(ウィキペディア)
・ 「柄谷行人/著者ページ」(amazon)
・ 「今、平和を語る 戦後70年への伝言 哲学者・柄谷行人さん」(『毎日新聞』2015/10/26 大阪夕刊)
・・・< 文中へ戻る

※6:『憲法の無意識』
著 者:柄谷行人
出版社: 岩波書店(岩波新書、新赤版1600)
新 書: 208ページ
発売日: 2016/4/20
ISBN : 978-4-00-431600-8 C0230
定 価: 821円(税込)

(← 画像はクリックで拡大)

内容紹介: なぜ戦後70年を経てもなお改憲は実現しないのか。なぜ9条は実行されていないのに残されているのか。改憲、護憲の議論が見逃しているものは何か。糸口は「無意識」である。日本人の歴史的・集団的無意識に分け入り、「戦争の末の」平和ではない、世界平和への道筋を示す。デモで社会を変え、国際社会に9条を贈与しよう。「憲法の無意識」が政治の危機に立ち現れる。(「岩波ブックサーチャー」より
(参考)
『憲法の無意識』 柄谷行人 著 (岩波新書編集部)・・・内容紹介、目次も掲載
『憲法の無意識』 岩波新書 (amazon)
・ 「柄谷行人×大澤真幸講演会」・・・岩波新書『憲法の無意識』刊行記念
    (終了:2016年5月6日/紀伊國屋サザンシアター)
・・・< 文中へ戻る

※7:「ペトロが剣を取ったら、『剣を取る者は皆、剣で滅びる』と主は宣言して、『わたしは十字架につく』と」
 イエスが「最後の晩餐」を終え、ゲッセマネで祈った後、弟子のひとりのユダに裏切られ、兵士や大祭司・ファリサイ派の人々の手下たちなどに連行されそうになると、ペトロは(ヨハネ18:10)、剣を向き、大祭司の手下に打ちかかった。そのときのイエスの言葉。
 新約聖書の四つの福音書に並行箇所があり、それぞれ、以下のとおり。
  ◎ マタイによる福音書 26章47〜56節 (小見出し:「裏切られ、逮捕される」)
  ◎ マルコによる福音書 14節43〜50節 (小見出し:「裏切られ、逮捕される」)
  ◎ ルカによる福音書  22章47〜53節 (小見出し:「裏切られる」)
  ◎ ヨハネによる福音書 18章1〜11節  (小見出し:「裏切られ、逮捕される」)
(参考)
☆「剣を取る者は皆、剣で滅びる」
「イエスは(ユダに)、『友よ、しようとしていることをするがよい』と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる(マタイ26:50-52/赤字引用者)
☆「わたしは十字架につく」
「イエスはペトロに言われた。『剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。』」(ヨハネ18:11/赤字引用者)
・・・< 文中へ戻る

※8:「『ヨハネの黙示』で、ヨハネが、『新しい天』『新しい地』を見てます。もう、この『今の天』と『今の地』は、去っちゃった」
「わたし〔ヨハネ〕はまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」(黙21:1/強調引用者)
・・・< 文中へ戻る

※9:「やがてみんな、天での再会なんだと、先週もそういうお話、しましたけれども」
>>「永遠のライフ」(「福音の村」2016/4/17説教)
 説教の終わりから3段落目最後には、次のようにある。
 
「やがて、天の父のみもとで、み〜んな集うそのときまで、ひたすら、『永遠の命を信じます!』と、そう一緒に宣言し続けましょう。まあ、それはいつか分かりませんけど、全員やがて、そっちでも、また会うんですよ(赤字引用者)
・・・< 文中へ戻る

2016年4月24日 (日) 録音/2016年5月13日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英