「怖いものカタログ」の最後に

【カトリック上野教会】

2016年11月13日 年間第33主日
・ 第1朗読:マラキの預言:(マラキ3・19-20a)
・ 第2朗読:使徒パウロのテサロニケの教会への手紙(二テサロニケ3・7-12)
・ 福音朗読:ルカによる福音(ルカ21・5-19)

【晴佐久神父様 説教】

 今日はどうしても、今朝がた見た夢の話をしたいのですが。
 主日のミサに寝坊して遅れる夢だったんです。(笑) しかも、6時間も! 起きたのが、午後4時だった。当然もうみんな怒って帰っちゃっただろうし、もう本当にショックで、「ああ、なんてダメな自分だろう・・・」ってガッカリしていた。
 ・・・と、そこに、普段、司祭館に入り浸っている青年たちがぞろぞろっと、コンビニの袋を持って帰ってきた。いつも勝手に人の冷蔵庫のビールを飲んだりしている(やつ)らです。たぶん、日も暮れてこれから飲もうっていうんで、買い物に行ったんですね。それで、私、彼らに文句言ったんですよ、「ずっといたんなら、なんで起こしてくれないのか!」って。「逆ギレ」っていうんですか? ・・・「八つ当たり」か。(笑) ともかく、文句言ったんです。
 「なんで起こしてくれないんだっ!(ง `ω´)ง ひとこと、『神父さん、ミサの時間だよ!』って言ってくれればいいじゃなか!」 ・・・で、そう言ったらね、ひとりの青年が、不思議そうな顔をして、「でも、起こさなくったって、いずれ起きてくるんだからいいんじゃないの?」って当たり前のように言う。それで、「いずれって言ったって、もう午後4時じゃん!」って言ったら、「だって、何時だって、どうせみんな待ってるんだから、同じでしょ」って言うんです。
 「えっ? まさか・・・」と思って慌てて走って行って聖堂のドアを開けたら、全員、シーーーンと、座って待ってるんですよ、信者さんたちが。6時間ですよ。・・・いやもう、そのときのショックというか、「ああっ!」と思ったその瞬間に、パッと目が覚めて、慌てて時計を見たら、いつもの日曜日の朝の、いつもの起きる時間だったんで、「ああ・・・。間に合ってよかった~ε-(´∀`*)」と、今朝は起きた瞬間、ホントに安心しました。
 いっつもね~、心は緊張してるんですよ、きっと。こう見えて、私、いっつも信者さんたちのことを気に掛けてるんですよ。(笑)
 あの~、でも、皆さん、「6時間」、待っててくれますか?(笑)

 でもね、「緊張」っていえば、みんなそうだと思うんですけど、実は、心の中はいつも緊張してるっていうか、おびえてるんじゃないですか? なんか失敗するんじゃないか、なんかうまくいかないんじゃないかって、まあ、そういう不安な気持ちって、みんなあるでしょ。
 一昨日の入門講座に初めて来た方の中に、「心の中に、いつも不安、恐れがある」って言ってた方がいました。昨日のシグニス・ジャパン(※1)の会議の後でも、一人の男性が、「今、とても心に不安がある」って言ってました。そんなふうに見えない人だったので、ちょっと驚いた。「事業のこととか、教会活動のこととか、なかなかうまくいかないのでいつも緊張している。責任ある立場なので、もしも破たんしてしまったらどうしようって思うと、とても不安で、昨日も眠れなかった」って。・・・世の中、実はみ~んな怖いんですね。み~んな、なんだか不安。
 そうそう、トランプさんがアメリカの大統領に決まった翌日の入門講座に、久しぶりに来た方がいたんですよ。「あれ? 珍しいな」って思ったら、こう言ったんです。「昨日の夜、トランプさんが大統領に選ばれたあと、怖くて怖くて、眠れなかった」って。
 だから私、安心させようとして、「いやいや、だいじょうぶですよ。だれが大統領になったって、それほど怖いことにならないから、そんなに心配しないでね」って言いました。
 だけど、実は、そこが大事なんですけど、キリスト者だったら、「怖いことが起こらない」なんていう安易な慰めを言うべきじゃないんですね。キリスト者は、こう言わなければならないんです。
 「確かに怖いこと、いっぱいあるし、これからもきっと、怖いこといっぱい起こるだろうね」と。
 ただ、そう言った上で、「それでも、なんの心配もない」と、そう言うべきだったんです。
 確かに、トランプさんがこれから一体何をするのか、それによって世の中がどうなるのか、あまりにも不透明で、不安で、「下手すりゃあ、戦争か?」って、まあ、みんなチラリと思うわけでしょ。だれもが今、この先のことを恐れています。まあ、それは人間として、あるいは常識的な社会人として、あるいは、さまざまなつらい経験を重ねてきた者として、当然の恐れかもしれない。
 でも、ここにお集まりの皆さんは、キリスト者ですよね。イエスさまを、信じてますよね。「明日を思い悩むな」という教え(※2)を信じた仲間ですよね。たとえどんな現実があろうとも、神さまは、御摂理(みせつり)によって、その偉大なご計画のうちに、神の国の完成を目指して、大いなる創造のみ(わざ)を今日も続けておられることを、信じなければなりませんよ、皆さんは。
 ・・・信じていましょうよ。そういう仲間になりましょうよ。世の中がどれほど恐れていても、どれほど緊張していても、われわれキリスト者は、・・・恐れない。そういう仲間でいましょうよ。
 そのような信仰の根拠が、まさに、イエスさまの励ましのお言葉にあるんだから。今日この福音を聴いた者としては(※3)、「そうだよね、キリスト者はおびえてちゃいけないよね・・・」と、そういう信仰を新たにするべきじゃないですか?

 イエスさま、今日、いろんなことを言ってますけれど、これ、なんでこんなにいろんな怖いことを並べてると思いますか?
 ・・・たとえば、「戦争」だとか「暴動」だとか、「地震」だとか「飢饉」だとか「疫病」だとか、「迫害」だとか、「裏切られる」とか「中には殺される人もいる」とか、もうありとあらゆる怖いことを、ぜんぶ並べてるんですよね (cf.ルカ21:5-17) (※4)。ちなみに、今日は読みませんでしたけど、福音書はこのあと、もっとすごいこと言ってるんですよ。「軍隊に囲まれる」 (ルカ21:20) だとか、「天体が揺り動かされる」 (ルカ21:25) だとか、すごいこといっぱい。これ、イエスさま、何を言ってるんだと思います?
 これね、およそこの世で人間が経験し得る怖いことを、ぜんぶ並べてるんですよ。いうなれば、「怖いものカタログ」みたいな感じです。ぜんぶカタログに並べて、「これ以上怖いもの、だれか考えつきますか? これで全部ですよ」と。おっしゃるとおり、そこには、われわれが想像し得る怖いこと、ぜ~んぶ載っかってる。
 なぜそんなことするかっていうと、別に脅してるわけじゃない。逆に、このカタログに載ってるような怖いことは、この世に山のようにあるけれども、それより、「神の愛のほうが上だ」と、「私の救いの力のほうが上だ」と、「だから、何も恐れることはない」と、そう言いたいんです。
 だから、「カタログ」なんです。カタログっていうのは、ぜんぶ載ってないと意味ないでしょ。そうじゃないと、「イエスさま、それはそうかもしれないけど、ほら、他にもこんな怖いことが・・・!」みたいにね、なんか別の不安を持って来られたら、いちいち言わなきゃならないじゃないですか。「それもそうだが、しかし」ってね。だから最初っから全部並べて、「しかし」なんです。
 ・・・私、今日は、その「しかし」っていう所を強く読んでたの、お気づきでしたか(※5)。「何があろうとも、しかし(・ ・ ・)、私のうちに働いている神の国を完成させる神の御力は、これは、どんなこの世の怖いことよりも格上だ」と。・・・この信仰があったら、日々の緊張や不安から解放されますよ。

 そういえば、この前、ここで柄谷さんの講演をしたときに(※6)、カントの言葉として、人間の中にある「自己愛」について触れてました。
 自己愛って、これはもう、大きな意味でいえば神の創造の(わざ)によるものなんですね。自己愛を持っている者として創られているんですから、仕方がない。つまり、「人間」という生きものは不完全であり、自己愛があり、それは生きていく上で必要なことではあるけれども、同時にどうしても自己中心になってしまうし、しまいには戦争も起こしてしまう。
 しかし、そんな不完全さは、完全なものに向かう道ですから、神はまさにその自己愛をも用いて、神の国をつくり出すわけです。人間が、「自分を愛するように人を愛すること(※7)」に目覚めていくプロセスです。人間が、そうしてあらゆる試練、あらゆる苦難、あらゆる(あやま)ちを超えて一致していくことで、日々、神の国は近くなっていく。人類が、どんな試練も困難も、理性と信仰を持って乗り越えていくことで、闇のかなたに大いなる神の国の光がもたらされる。私は、そう信じてるんですね。
 ですから、柄谷さんが、そのような人類の成長の歴史の構造について、アウグスティヌス(※8)とか、カント(※9)とか、フロイト(※10)なんかの言葉を借りて語っていたわけですけれども、講演会の時間は短いんで、なんだか時間切れになっちゃったんですね、最後の所。カントが言うところの「自然」が、戦争によって人を成長させ、真の平和へと導いていくというようなことを語って終わったんです。それで、聴いていた人の中に、「戦争が起こるのも仕方ないって言いたいのかな?」って思う人がいたら困ると思い、私、余計なことかもしれないけど、つい、聖書中のイエスさまの言葉を付け加えちゃいました。実は、それが、今日のこの箇所なんです。
 確かに、イエスさまも、戦争や暴動はね、「ある」と。「こういうことがまず起こるに決まっているが」 (ルカ21:9) って言ってます。でも、世の終わりは、そんなにすぐに来るもんじゃない。もちろん、「世の終わり」っていっても、それは「究極の怖い日」じゃないですよ。「究極の喜びの日」ですけど、ともかく、世の終わりはすぐには来ない。なぜなら、この試練のプロセスこそが創造のみ業であり、かけがえのない意味があるからです。
 現実に、いろ~んな怖いことがあり、イヤなことがあるけれども、それはみんなプロセスであって、じ~っと忍耐して、乗り越えていって、やがて、すべてが完成する日を、われわれは希望を持って待ち望むんだ、と。
 あらゆる恐ろしいことが起こるけれども、「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」 (ルカ21:19) 。どれほど迫害されたとしても、「あなたがたの髪の毛一本も決してなくならない」 (ルカ21:18) 。・・・ありがたいですねえ。
 恐れてはいけない。「髪の毛の一本もなくならない」んだから。
 ・・・信じましょうよ。
 怖いことはたくさんある。大統領が代わっただけで「すわ、戦争か!?」みたいな話にもなる。もちろん、戦争を起こさないようにみんなで努力しましょう。でも、起こるものは起こってしまうこともある。戦争も含め、「こういうことがまず起こるに決まっている」とさえ、イエスさまも言っている (ルカ21:9) 。「決まっている」んだけれども、だからと言って、ぼくらは決しておびえることなく、神の国を信じ続けます。あきらめたくなるような試練の中で、なおも神の愛に目覚めることによって、試練を超え、闇にさす光の体験を繰り返して、本当の神の子になっていく。・・・それが、神の約束なんです。これはもう、信じることでそうなっていくというか、そう信じたから、初めて人は人になれるというか。
 神の救いを疑って、「もしかして滅びるかも」と思うことこそが死であり、それが罪です。

 私、今までも、いろいろな所でいろいろな人に会って、いろいろな恐ろしい話を聴かされました。相談に来た大勢の人からも、「えっ? そんな怖い目に遭ったの?」「そこまでつらい思いをしたの?」っていうこと、いっぱい聴かされました。でも、どんな話を聞いても、恐れることなく福音を語ってきたつもりです。・・・いや、・・・正直に言おう。そんな話を聞いて、当然ちょっとビビるというか、「いやあ、これほどの試練に対して福音を語るなんて、ぼくなんかの信仰で、だいじょうぶかな・・・」っていう思いが湧いてきて、一個人としては、怖い気持ちになることもある。
 しかし、その人を救うのはイエスであり、イエスの約束であり、イエスさまは、「たとえどのような恐ろしいことがあり、どれほど人から責められたとしても、どんな悪も対抗できない、どんな悪魔も反論もできない、そのような知恵を、わたしがあなたがたに授ける。だから弁明の準備さえしなくていいよ」と、そう言っている (cf.ルカ21:14-15) (※11)
 実際、イエスさまを信じて福音を語っていると、必ず悪の力がやってきて、人を恐れさせることをささやくんです。「そうはいっても、これほどの闇に対しては、ほら、キリスト教なんか役に立たないだろうが」っていうようなね、悪のささやきが聞こえて来るんですよ。私なんか、そういう戦いの最前線にいるわけじゃないですか。だから余計に、そういう悪からのチャレンジがあるんです。まさに「迫害」ですよね。「お前はそんなこと信じているけど、そんなお前自身も滅ぼしてやる」みたいなね。これ、自分の中の恐れなんですけどね、実は。でも、悪はそんなかたちで、私を攻めてくる。だからもう、ぼくはドキドキしながら、「いや、それでもイエスさまが約束してくださったんだから、今は、ただ聖霊に語っていただこう」と、そう信じて口を開き、「だいじょうぶ。恐れるな! その闇は、必ず光に変わる」と宣言する。
 この聖堂だって、私が深夜夢みているころは真っ暗闇だったけれど、やがて朝が来る。今は、午前中の光が差し込んでいる。・・・この聖堂、いいですよね。・・・もう毎っ回、同じ話してるね、私。でも、ホ~ント、きれいじゃないですか、見てください、サーッと黄金の光が差し込んでいて。その光の方に向かって、ぼくらは試練の日にあっても、恐れずに、忍耐して、歩み出します。

 この「怖いものカタログ」の最後に、イエスさまが、・・・え~、ここには載ってませんけども、宣言する言葉があるんですよ。それを、ちょうど先ほど、アレルヤ唱 (※12)で用いてましたね。ルカ21章の「怖いものカタログ」の最後に、イエスさまが言う言葉を、アレルヤ唱で言ってるんですよ。「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい」 (ルカ21:28) と。
 ・・・つまり、「ピンチはチャンスだ」って言ってるんです。
 「証しをする機会なんだ」って、さっき、イエスさま、言ってましたね (cf.ルカ21:13/※11参照) 。「怖いことが起こった時こそがチャンスだ」って言ってるんです。普通は、何か怖いことが起こったら、「うわ~、イヤだなぁ・・・。こんなこと、起こんないほうがいいのに・・・」と思うだけでしょうけれども、キリスト者は、「さあ、時が来た!」と、「今が出番だ!」と、そう思え、と。そんなことが起こったら、あなたがたは「身を起こして頭を上げなさい」 (ルカ21:28) と。・・・「チャンス」なんです。

 いま、今日幼児洗礼を受ける赤ちゃんのお母さまに、励ましを語ろうと思ったら、お聞きの通り赤ちゃんがむずがって、(笑) 聖堂を出てっちゃったから、あとでもお話ししますけど、お母さんと赤ちゃんに申し上げたいことがあるんですね。赤ちゃんが幼児洗礼を受けるわけですけど、じゃあ、洗礼を受けたら、これから幸せなことばかりが続くかと言えば、そんなことはあり得ない。脅かすわけじゃないし、ちょっとかわいそうな気もするけれど、赤ちゃんにはこれから、たくさん試練が待ってるんですよ。怖い思いもたくさんしなきゃならない。・・・でも、それ、当然でしょ。
 だから、赤ちゃんに向かって、「信じれば、試練のない幸せな人生が待ってますよ」とは、私は言わない。逆です。「試練がたくさん待っている人生を、真の幸せを信じて生きていこう」と。「ど~んなに試練が襲ってきても、この先、どれほど悪い世の中になろうとも、神の愛を信じれば乗り越えられるよ」と。だから、親が与えるべき恵みは、「幸せな生活」じゃないんです。「神の愛を信じ続ける信仰」です。
 だって、「幸せな生活」が10年、50年続いて、ある日、人生が終わりました。・・・それが何になるのか。それを人生と言えるのか。むしろ、試練を超えていった先にこそ、今のわれわれには想像もつかない、「幸せな神の国」が見えてくるんです。そのような希望をもたらすものだけを、私たちは、「信仰」と呼ぶ。
 「いいや、信じたくない。もう、あきらめた」って言うんだったらね、まあ、それも一つの生き方なのかもしれないけれども、私は、「信じましょう」と、そう呼びかけたい。信じたときに初めて、人生が始まるからです。

 ルカの、この「身を起こして頭を上げなさい」 (ルカ21:28) ってイエスさまがいう箇所を読むと、ちょうど10年前の今月、母が亡くなりましたので、つい先週、母の10周年のミサを、ここでいたしましたけれど、母が亡くなる数日前のことを思い出します。
 親切な人が、主日の私の説教をテープに()って、その日の午後、病院の母のベッドサイドに持って行って、聴かせたんですね。母は、亡くなる数日前ですから、寝たきりで、その日もつらそうに横になっていて、意識ももうろうとして、ちゃんと聞こえてるかどうかっていう状況だったらしいんですけど、枕もとのテープで私の説教を聞いたわけです。すると、私の話って、どうでもいい話でちょっと笑いを取るじゃないですか。それを聞いた時、母が笑ったんですって。それで、ああ聞こえてるんだって思ってたら、それどころか、「試練の中で信じましょう」っていう福音を聴いた母が、ガバと身を起こしたんですって。それで居合わせた人たちがすごくビックリして、福音には、なんてすごい力があるんだろうって感動したそうです。
 母が亡くなった直後、ちょうど福音書のこの個所がミサで読まれました。イエスさまが人々を励まして、試練のときにこそ「身を起こして頭をあげなさい」って言うところですね。それで、その日のミサの説教で、「試練の中で、母が本当に身を起こして頭を上げたんです」って話しました。
 ホントに起き上がって、頭を上げたんです。それこそ、もうすぐ、天に召されるという時、・・・何でしょう、人生で一番怖い時? 人生一番の試練? ・・・もしかすると、人生で一番、悪霊がささやきかけてくるような時、福音の力、信じる力で、「この今こそ!」と、一番怖い目に遭っている時に、「まさにこのときこそ恵みの時!」と信じて、「身を起こして頭を上げ」る。
 頭を上げたその目に映ったのは、天の御国の輝き・・・だったはず。

 あっ、お母さん、帰ってきましたね。
 今から洗礼を受けるあなたのお子さんにとって、何よりも大切なのは、試練の中での信仰、希望ですっていう話、お子さんが人生において、この信仰によってどれほど助けられるかっていう話をね、今、していたところです。そのような信仰への入り口として、幼児洗礼式、いたしましょうね。
 また、今日これから転会(※13)する方、イエスさまの約束によって、もう救われているんだから、「試練の中でこそ希望を!」というキリスト教の喜びを新たにして、神さまからの励ましとして、今日のご聖体を頂きましょう。
 幼児洗礼を受ける方と、転会なさる方は、前に来て並んでください。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます。)

※1:「シグニス・ジャパン」
 SIGNIS JAPAN(カトリックメディア協議会)
 カトリックの国際的な団体であるSIGNIS(世界カトリックメディア協議会)の日本組織。
 カトリックの司祭、修道者、信徒、求道者の団体で、放送・映画・視聴覚メディア・インターネット等のメディアを使って、キリストのよい知らせ(福音)を広めるために活動している。
 本部はベルギーのブリュッセルにあり、80年を越える歴史がある。バチカンの教皇庁広報評議会の下で、ローマに技術サービスセンターを持つほか、全世界140ヶ国に支部がある。
 「日本カトリック映画賞」は、毎年、このシグニス・ジャパンが、活動の一環として、会の趣旨に沿った選考で授与している。
 会長は、映画監督の千葉茂樹氏。晴佐久神父は顧問司祭。
(参考)
・ 「SIGNIS JAPAN カトリックメディア協議会」(オフィシャルサイト)
・ 「SIGNIS」(本部オフィシャルサイト/英語)
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※2:「明日を思い悩むな」という教え
===(聖書参考箇所)===
「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:34/赤字引用者)
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※3:「今日、この福音を聴いた者としては」
 「この福音」は、この日=2016年11月13日(年間第33主日)=の福音朗読の箇所にある、イエスさまの励ましの福音。この日、に読まれた福音朗読箇所は、以下のとおり。
  ルカによる福音書21章5~19節。
   〈小見出し:「神殿の崩壊を予告する」21章5~6節、「終末の徴(しるし)」21章7~19節〉
===(聖書参考箇所)===(朗読箇所から部分抜粋)
・ 「戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」(ルカ21:9/赤字引用者)
――
・ 「前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。 どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。」 (ルカ21:14/赤字引用者)
――
・ 「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。」(ルカ21:16-18/赤字引用者)
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※4:「もうありとあらゆる怖いことを、ぜんぶ並べてるんですよね」
===(聖書参考箇所)===(朗読箇所から部分抜粋)
・ 「あなたがたはこれらの物(見事な石と奉納物で飾られている神殿)に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」 (ルカ21:5-6/赤字引用者)
――
・ 「戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、」 (ルカ21:9部分/赤字引用者)
――
・ 「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉疫病が起こり、恐ろしい現象著しい徴が天に現れる。」(ルカ21:10-11/赤字引用者)
――
・ 「人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。」(ルカ21:12部分/赤字引用者)
――
・ 「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。」(ルカ21:16-17/赤字引用者)
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※5:「私、今日は、その『しかし』っていう所を強く読んでたの、お気づきでしたか」
===(聖書該当箇所)===(朗読箇所から部分抜粋)
「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし(・ ・ ・ )、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。」 (ルカ21:16-18/赤字&強調引用者)
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※6:「ここで柄谷さんの講演をしたときに」
 2016年11月4日、カトリック上野教会で、思想家の柄谷行人(からたに こうじん)氏をお招きして、講演会が行われた。演題は、「憲法9条と『神の国』」。
(参考)
・ 「柄谷行人氏 講演会」(「福音の村」内、ご案内ページ)
・ 「天国のパレードを目指して」(「福音の村」:2016年10月9日説教)>この辺(下から2段落目)から
・ 「憲法9条と神の国」(「福音の村」:2016年11月6日説教)>この辺(下から2段落目)から。
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※7:「自分を愛するように人を愛すること」
 イエスさまが「最も重要な掟」として、「神である主を愛する」ことの次に挙げられた掟。
 特に新約聖書の中で、繰り返し強調されている。
===(聖書参考箇所)===
・ 「父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ19:19/赤字引用者)
――
・ 「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 」(マタイ22:39/赤字引用者)
――
・ 「第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」 (マルコ12:31/赤字引用者)
――
・ 「そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」 (マルコ12:33/赤字引用者)
――
・ 「彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 (ルカ10:27/赤字引用者)
――
・ 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。(ローマ13:9/赤字引用者)
――
・ 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。 (ガラテヤ5:14/赤字引用者)
――
・ いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。 (エフェソ5:33/赤字引用者)
――
・ もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。 (ヤコブ2:8/赤字引用者)
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※8「アウグスティヌス」
◎アウグスティヌス
 アウレリウス・アウグスティヌス(Aurelius Augustinus <Hippo>)354‐430
 ラテン教父の伝統にあって最大の神学者・哲学者。その後のあらゆる思想潮流に対して多大の影響を与え、「西欧の父」と称せられる。
 > こちら に少しご紹介してあります。
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※9:カント
◎カント
 イマヌエル・カント(Immanuel Kant) 1724-1804
 ドイツの哲学者。『純粋理性批判』(1781)、『実践理性批判』(1788)、『判断力批判』(1790)は三大批判書と呼ばれる。真・善・美の問題を原理から考え直し、深い洞察による解答を示した。
 また、『永遠平和のために』(1795)では、常備軍の全廃、諸国家の民主化、国際連合の創設などの具体的提起を行ない、人類の最高善=永遠平和の実現が決して空論にとどまらぬ根拠を明らかにして、人間一人ひとりに平和への努力を義務づけた。
 > こちら にも少しご紹介してあります。
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10:「フロイト」
◎フロイト
 ジークムント・フロイト(Sigmund Freud) 1856-1939
 オーストリアの精神科医で、精神分析の創始者。モラビアのフライベルク(現在のチェコのプリボール)に生まれる。父はユダヤ人で羊毛商人。4歳のときウィーンに移住し、ウィーン大学に学んで臨床神経学者となる。1881年に医学の学位取得。1885年、J・M・シャルコーの催眠・暗示によるヒステリー治療に感銘を受け、次第に無意識や性衝動の分析に重点を置くようになる。開業医にとなり、催眠による治療を開始。催眠治療中の患者の示唆により、催眠にかわる方法として自由連想法を使うようになり、治療技術としての精神分析を確立。夢の分析的解釈を始め、理論的にも整ってくる。『夢判断』(1900)、『ナルシシズム入門』(1914)、『精神分析入門』(1917)、『自我とエス』(1923)、『続精神分析入門』(1933)などが主な著作。
 自由連想法による精神分析の長年の実績も重要だが、理性的、精神的存在としての人間像を揺さぶった点で、現代思想に大きな影響を与え続けている。ナチスの迫害を受け、1938年ロンドンに亡命。1939年、上顎癌(じょうがくがん)で帰天。
(参考)
・ 「フロイト」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008年)
・ 「フロイト」(『日本大百科全書(ニッポニカ)』三省堂、1994)
・ 「フロイト」(コトバンク)
・ 「ジークムント・フロイト」(ウィキペディア)
・ 「S.フロイトとは?」(性と文化の革命家/個人ブログ) など
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※11:「だから弁明の準備さえしなくていいよと、そう言っている」
===(聖書該当箇所)===(朗読箇所から部分抜粋)
「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。 それはあなたがたにとって証しをする機会となるだから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。 どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。」(ルカ21:12-15/緑・赤字引用者)
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※12:「アレルヤ唱」
キリストは、ミサにおいて、共におられる。それは、
 ① 教会共同体のうちに
 ② 司式司祭のうちに
 ③ 聖体の秘跡のうちに
 ④ 聖書朗読のうちに(特に「福音朗読」のうちに)
 上記④の、「福音朗読」によって各々に語りかけてくださる主を迎えるために歌う歌を、
アレルヤ唱(または詠唱)と呼んでいる。(四旬節は、「アレルヤ」は唱えず、章句のみの歌唱となるので、「詠唱」といわれる)。
 これは、自らの信仰表明の意味もあり、ふさわしく主を迎える心を準備する。
 「アレルヤ」は、もとはヘブライ語の「ハレルヤ」からきており、「主をほめたたえよう」という意味がある。
*****
この日=2016年11月13日(年間第33主日)=のアレルヤ唱の歌詞は以下のとおり。
 「アレルヤ アレルヤ
  恐れずに頭を上げなさい あなたがたの救いは近づいている
  アレルヤ アレルヤ」
(参考)
[PDF] ローマ・ミサ典礼書の総則 (暫定版)」(カトリック中央協議会)
・ 「ミサ曲」(ウィキペディア)
・ 「年間第33主日(C年)」〈聖書と典礼 2016.11.13〉パンフレット p.4-5(オリエンス宗教研究所) 他
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※13:「転会」
 キリスト教で、カトリック以外から、以後、カトリック教会に籍を置く方は、「改宗」ではなく、「転会」という。また、転会するための式を、「転会式」という。
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2016年11月13日(日) 録音/2016年12月1日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英