天国直結の気持ちで

2013年7月7日年間第14主日
・第1朗読:イザヤの預言(イザヤ66・10-14c)
・第2朗読:使徒パウロのガラテヤの教会への手紙(ガラテヤ6・14-18)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ10・1-12、17-20)

【晴佐久神父様 説教】

 暑いですねえ。体調はいかがですか? だいじょうぶですか? 熱中症、気を付けてくださいね。「もう年なんだから」と、あちこちから言われてるんじゃないですか? 「水分をいっぱい取って、室温は28度に」と、今朝の新聞に載っておりました。
 どうぞ、差し支えなければこの涼しい聖堂で、今日一日お祈りをするっていうのはいかがですか。省エネにもなりますしね。主任司祭の霊名のお祝いのために、霊的花束のお祈りを、まだちゃんと果たしてないという方は、(笑)ぜひ、この機会に涼しい聖堂で。
 さて、猛暑を迎える準備をしなければなりませんが、私にとって、「夏の準備」というと、「天の国に入る準備」、天の国の恵みをしっかりと味わう準備でもあります。・・・私にとって、「夏」って、ほとんど「天の国」っていう感じですから。

 もう梅雨が明けたそうですが、早いですねえ。
 「梅雨明け」「夏休み」なんていうと、ぼくはもう、血沸き肉躍る。(笑)それはもう、この浮世のしがらみを逃れられる天国でしたから。だって、叱られてばかりの学校とか、退屈な授業とかから解き放たれて、好きなだけ遊べるんですよ。それはそのまま、神さまの世界に触れる時間でしたし、まさにそんな夏休みを過ごしてましたから、それはこの年になっても変わらない。
 「梅雨明け」なんていうともうワクワクしちゃってね。でもまだ蝉が鳴いてないでしょ。だからなんとなく嵐の前の静けさみたいな感じですけど、これ、もうすぐ蝉が鳴きだすと、もうスイッチ入って「本番到来!」って感じ。神さまの恵みの世界にどっぷりとつかる。
 ぼくにとって夏はそうですし、皆さんも、暑い夏大変でしょうけど、「神の国ここに来た!」っていうような感動を大切にする夏を迎えようじゃないですか。

 「真っ白い雲の峰を仰ぎ見る」
 私の夏の第一のイメージは、それですね。「入道雲おたく」なんですよ。気に入ったのを見つけると、車でおっかけたりもするんですよ。
 今年の春、天候不安定な時が続きましたでしょ。「大気の状態が不安定」って天気予報で言うと、私はワクワクするんですよ。そういうときに入道雲が出来上がるから。春先でも、立派な積乱雲ができます。
 実際、今年の春、ずいぶん美しい積乱雲を見ました。稲城の方、町田の方にできると、ちょうどいい。多摩から眺めるのにね。車で高台に行って眺めたりするんですけど、形も光も、刻々と変わりますしね。飽きることがない。特に、日の当たってるところの、あの真っ白な色は、まさしく天国の色ですね。神の栄光の色。汚れがない。ダイナミックで、そこから何か尊いものが溢れてくる。
 「真っ白」、それは夏の色でもあり、神さまの色でもある。

 あるいは、私にとって夏の色といえば「赤」ですね。といっても、スイカの赤。
 昨日、スーパーでカップに入った「カットスイカ」っていうのを買って食べたんですけど、本当は、パカッと割りたいんです。でも、もう、高齢者のひとり暮らしになると、(笑)カットスイカなんです。量もちょうどいいし、生ゴミも出ないし。
 だけど、なんか最近のスイカ、白っぽくないですかね。気のせいですか? こんな色だっけかなあって思う。
 私にとっての夏の色、スイカの赤は、もっと真っ赤!

 昭和30年代、晴佐久さんちは暗かった。
 「暗かった」って、家族仲悪かったとかじゃないですよ。(笑)ホントに暗かったの。あのころはどこも電球1個ですしね。六畳と四畳半のふた間の家だったんですけど、その四畳半の方がちゃぶ台出す部屋で、電球一つだから夜は暗いんですよ。
 だけど、「さあ、今晩はスイカよ〜♪」ってお母さんが言うと、もうその夜のスイカをすごく楽しみにして待ってるわけですね。冷蔵庫なんかないんですよ。若い皆さん、昔、「冷蔵庫」なんて、なかったんです。じゃあどうやって、あの丸いまんまのスイカを冷やすかといえば、お風呂場でたらいに水を入れて、そこにチョロチョロ、チョロチョロと、水を注ぎ続けるんです。
 もうワクワクですよ、昼間っから。スイカだ〜♪スイカだ〜♪♪って。時々お風呂場をのぞいて眺めるんです。(笑)スイカだ〜♪スイカだ〜♪♪スイカだ〜♪♪♪
 そして夜、お父さんが帰って来ると、ちゃぶ台をコロコロッと出してですね、その裸電球の下でスイカを割るわけですよ。包丁でパカンッて割ったら、パッと、真っ赤なあの色が目に飛び込んでくる。それは、もっと赤かったと思う。今のスイカより。
 ホンットに真っ赤で、それは幸せの色、家族の平和の色。・・・薄暗い部屋に、パッとその赤が輝き出る瞬間は、忘れられない。

 なんかね、こう、現実って、やっぱりどこか閉ざされているというか、ふたがあるというか、邪魔があるというか、でもそれがパカッと割れて、その向こうの世界が見える瞬間、これ、すごく大事な瞬間じゃないですか?
 みんな、目が閉ざされてるんですよ。「目からうろこ」って言葉があるけど、まさにうろこが入ってる。それがパッと取れて、一瞬、「神の国直行」みたいな、「神の国直結」みたいな、「神の国直視」みたいな。ああいう色はね、生涯を支えますね。
 もう、あんな幸せな色を見て、あんなおいしいスイカをパクリと食べたら、それでいいじゃないかと、私、そう思いますよ。そんな思い出がもう自分の人生にあるんなら、いや、思い出なんてレベルじゃない、この星に生まれてきて、一瞬でもあの色を見て、ひと口でもあの甘い味を味わったなら、生まれてきた甲斐(かい)ここにありってことだし、それ以上求めるのは贅沢(ぜいたく)だと、そこまで言っていいんじゃないですか?
 皆さん、まだ「あれが足りない」「これはいやだ」って、不満、文句でいっぱいですけど、この世でスイカ1個食べたなら、もう満足して黙って死んでいけと、(笑)私はそう言いたいね。あと何が必要よ、と。

 あとね、夏の色っていうなら、私は、「青」なんですよ。
 それも、朝顔の青。あの頃は、朝顔とか、どの家も競って育ててましたよね。
 わが家も父親がいろんな朝顔をせっせと育ててました。棒を立てたり、柵に巻き付けたりして。で、私はとりわけ、あの青い朝顔が大好きでした。ホントに美しいと思った。
 朝まだきですと、つぼみが傘みたいにクルクルッと巻かれていて。まだ開く前ね。その時点でうっすらと青だっていうのはわかるんだけれど、それが早朝、開きだす。そうするともう、その「青」が・・・朝顔の奥に、神秘な世界が見えるんですよ。もう、うっとりと、その「青」を眺めてました。
 あれはただの「青」じゃないんですよね。あえて言えば、ここのその、聖堂の脇のそのステンドグラスの、その「青」ですね。この透過光に近い。これにもうちょっとコバルト加えたような。・・・美しい「青」。
 ホントに、神さまの神秘の世界がチラリと、その向こうに見える。これ、早朝じゃないとダメなんですよ、ご存じですか? 日が昇ってくると、少〜し赤みが差してきちゃうんです。で、午後には、紫っぽくしおれちゃう。だから、あの「早朝の新鮮な青」っていうのは、かけがえがない。
 実は今、教会のお隣りの会社が、その青い朝顔を育ててるんです。私、ホントは青い朝顔育てたいんだけれども、毎年ハタと気がつくと、もう夏になっちゃってて、「ああ、そうだ!」と思ったときはもう遅いんですよね。あれ、4月くらいからやんなきゃなんないのかな。でも、隣りは毎年せっせと育ててくれてるんで、私は毎朝、「これでいいや♪」と思って眺めてるんです。(笑)美しいですよ。早朝、神さまの世界がその向こうに見えるというような、あの神秘の「青」。・・・夏の色。

 なんだかいろいろと、この世の汚いものばっかり見つめてないで、「栄光の白」「幸せの赤」「神秘なる青」、神さまの世界がその向こうに見えるという夏の色に、ちょっと目を開いてみれば、「私、何悩んでたんだろう?」って、絶対そう思えるはずですよ。

 第1朗読で、イザヤの美しい預言がありましたね。
 「あなたたちは乳房(ちぶさ)に養われ、抱いて運ばれ、膝の上であやされる」(イザヤ66:12)
 これが現実なのに、目のうろこでそれが見えないんです。私たち、乳房で養われ、抱いて運ばれ、膝の上であやされてるんですよ、神さまに。
 夏はちょっと、「天国直結」の気持ちでですね、「母がその子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める」っていう、この神さまの宣言を素直に受け止めて、安心した方がいいんじゃないですかねえ。
 いろいろあって、福音がなんだかわからなくなったときは、やっぱり、この、「すべての人を愛している神さまの愛」っていう天の国の喜びに直結して、福音の原点に立ち返る。暑い夏は、そういう単純な日々にいたしましょうよ。で、そのことをみんなにも教えてあげましょう。「さあ、朝顔見なさい」「さあ、雲見上げなさい」「ほら、神さまはあなたを愛してる」ってね。

 土曜日は電話相談の人が多いんで、いろいろ相談を受けて、福音を語ってるんですけど、福音を語るって、コツがあるんですよ。皆さんも覚えといた方がいい。
 まずは、神さまの栄光の世界を思い浮かべて、そこに直結する心で、余計なこと言わず、シンプルに普遍的な神の親心だけを語ればいい。
 「だいじょうぶだよ。必ず(・・)救われるから」って。・・この、100パーセント感ね。

 昨日名古屋から電話してきた方は、子どものことで悩んだりしていたけれど、布池(ぬのいけ)教会の前の書店で私の本を買って読んで救われた、というご縁で、電話してきた。
 で、「教会に行きたいな〜」と思って聖書も読んでる。だけど聖書に、結構厳しいことがいろいろ書いてあって、「私みたいな弱い人間は、裁かれて、救われないかもしれないと思うと、怖くなる。教会に行くのもためらわれる」というような相談でした。
 確かに、聖書開くとね、「だれもが裁きの座で右と左に分けられて、右は救われ、左は火に焼かれる」みたいな箇所とかある。でも、聖書は福音ですし、福音のコツは、もう単純に神の愛、その栄光、普遍的な親心を語るわけですから、私は当然、「あなたは神に愛されている、だいじょうぶです!」とお話ししました。

 実は、「右か左か」っていうのを、キリスト教はすごく嫌うんです。「二元論」っていうのを異端として退けてきた。全能である愛の神に「どっちか」なんて馴染みませんから。
 じゃあなんで聖書に「右だ、左だ」って出てくるかっていうと、これ、皆さんも覚えといてくださいね。これはもう、「スッパリ真ん中で切って、どっちかしかない」なんて話じゃなくって、右と左を示した上で、「『左』に救いはありませんよ、『右』が救いですよ」と分かりやすく示して、すべての人を救うためなんですよ。「右ですよ、こっちですよ」って。
 ですから、たとえ左の一番端っこにいても救いの内だし、あとは右を向けばいいんです。・・・これを「救い」っていう。救われてると知って、救われる。
 方向がはっきりしなければ、どっち向かっていいかわかんない。だから聖書は、取り合えず「善だ、悪だ」「右だ、左だ」「救われる、救われない」っていうことを言うけれども、それは、矢印を示すためで、言ってることは「神の方を見なさい」と。
 神さまの救いの世界を、それこそ光る雲の峰の頂みたいに真っ白だとするなら、そこに向かう人間の世界は、さまざまな影もあるわけだから、黒い部分もいろいろあってね、いわば「グラデーション」なんですよ。線の引きようがない。これを「グラデーション理論」という。というって言っても私が言ってるだけですが。
 すべて、グラデーションなんです。白から黒まで、灰色がなだらかに続いている。真っ白は神さまだけですから、われわれはどんなに白に近くても、ちょっとは黒いわけですね。絵の世界でも、この世で完全な白なんてつくれません。少〜し灰色なんです。そしてグラデーションですから、だんだん灰色が濃くなって、黒っぽくなっていくけど、最後の所までいっても、完全な黒は、この世では不可能です。まだちょっとは白い。・・・ちょっとは(・・・・・)白いんです。だから、白の方を向けるし、向いたらもう救われる。救いを味わえる。いやもう、そもそも、その「白」がほんのちょっとでも入っている段階で、救われてるんですよ。
 だけど、それに気づかずにいて、自分は黒だと思い込んで苦しんでいるから、「黒だけを見ないで、白の方を見ろ」と。右か左かは、この矢印の話なんですよ。そもそも、自分がグラデーションのどのあたりかなんてことじゃなく、すべての人の内にグラデーションがあるって考えた方が真実に近いでしょう。
 それをね、グラデーションの途中に線引いて、「こっちは滅びる、こっちは救われる」なんて、こんな乱暴で残酷な話はない。「母である神が、わが子を慰めて、乳房で養って、抱いて運んで、膝の上であやしてた」ってのに、結局「この子は少し黒いっ!」って裁くなんて、そんなことあるわけないじゃないですか。あり得ないことでしょ。
 名古屋の方に、「だいじょうぶです。あなたはもう救われてるし、必ず救われるし、ただもう神の栄光の世界、『白』を見つめなさい」って、100パーセント感のある福音の話をしてたら、「ああ、よかった! 明日教会に行ってみます」って言ってましたから、今ごろ、たぶん初めてミサに(あずか)って感動してるんじゃないですかね。今のイザヤの預言とか聞いて、「ああよかった」って、喜んでるんじゃないですか。

 第2朗読のパウロの言い方だと、「割礼の有無は問題じゃない。大切なのは新しく創造されること」なんです。
 「割礼の有無」ってこれ、二元論でしょ。「洗礼受けてるのか、受けてないのか」みたいな話。「ちゃんと信じるのか、信じてないのか」みたいな話。「いい子なのか、悪い子なのか」、そんな話は問題ではない。「大切なのは新しく創造されること」。
 今まで目にうろこが付いてた人が、雲見上げて、栄光の世界を知ること。イエスを知って、自分はすでに救われていると知ること。もうそれは、新しい創造ですよ。まさにそういう新しい創造のために、人は創造されている。

 昨日、次の電話の方は九州の男性でしたけど、「洗礼の準備をしているけど、この神父からは受けたくない」っていう相談でした。(笑)いや・・・そう言われてもねえ。(笑)
 で、私は今度は「ATM理論」をお話ししたんです。「どこでも同じ」って理論。これも覚えといてください。ともかく、神を仰いで「普遍性」ってこと考えればいいんです。グラデーションもそう。結局すべて、「少しは白い」し「どこでもおんなじ」なんだから。
 「いいからさっさと洗礼受けなさい。もう受けちゃえば、カトリックカードを手にできるんだから、あとは全世界どこのATMからも恵みを引き出せます。(笑)あらゆる洗礼、ミサは、神さまの栄光の世界への入り口ですから、誰が捧げていようが、誰が授けようが、そんなこと、ぜんぜん関係ない。窓口のお姉さんの態度が悪いからといって、カードが使えないってことはないでしょ? いいから黙って、カードもらっちゃいなさい。誰からとか、関係なし。洗礼は神さまが授けるんだから、どんなに貧しい信仰でも、ちゃんと言葉としるしがあれば、この世のことになんかに左右されません。これが『秘跡』っていうもんです。洗礼は秘跡なんだから、神父を気に入ろうが気に入るまいが、そんなこと気にせずに、ちゃんと受けてほしい。ひとたび受けたなら、家の近くのATMでもいい、ちょっと使い勝手悪ければ隣に行ってもいい、全世界どこでも、何の問題もない」。そうお答えしたんです。
 この「すべてを含むグラデーション」「いつでもどこでも誰でもっていう普遍性」を、特に、神さま直結みたいなこの季節に味わって、安心してくださいね。

 昨日、すぐそこの高齢者施設に行きました。信者さんが入ってるんですよ。午前中が都合いいということで、昨日の午前中に、その方のご主人と一緒に伺いました。歌を歌って、ミサのお祈りをして、今日のこの箇所を読んで、お話をして、病者の塗油の秘跡をお授けし、ご聖体を授けました。
 で、今日の福音書読んでると、面白いんですよね、「ああこれ、二千年たっても、書いてあるそのまんまだなあ・・・」って、昨日、読みながら思ったんです。
 まず、イエスさまが「すべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」ってありますでしょ? まさに昨日、私とご主人が「二人で」そこに行ったわけですよ。
 そして「家に入ったら『この家に平和があるように』と言いなさい」って書いてあったから、ご主人と二人でね、「この家に平和があるように!」って宣言しました。
 それから、「平和の子がそこにいるなら、平和はその人にとどまる」って書いてありますから、「よかったですねえ、奥さん。あなたは『平和の子』だから、今、イエスさまに遣わされて来た二人が、『この家に平和があるように!』って言ったとき、ホントにあなたに平和がとどまりましたよ」って言ったら、うれしそ〜にね、ニコーーッとしてくださった。
 そして、「その町の病人をいやしなさい」ってあるから、イエスさまの名によって病者の塗油を授け、「病気の癒やしを心から祈ります」ってお祈りしたら、ご主人もすごく喜んで「よかったねえ、よかったねえ」ってね、奥様におっしゃってました。
 さらには、「御自分が行くつもりのすべての町や村に先に(・・)遣わされた」ですから、後からイエスさまが来るんですよね。・・・それで、「ホントに来ましたね」って言って、ご聖体を差し上げたんです。なんか昨日の、あの聖体拝領は、すごく幸せな感じでした。
 最後に「神の国は近づいたと言え」ってありますけど、ホントにもう来てるんですよね。これはもう、「神さま直結」の恵みですから、「ここはもう教会そのものだから、安心してていいですよ」って申し上げた。
 そもそもその方、「教会の近くの施設がいい」ってことでそこに入られたんですけど、彼女のお部屋、この祭壇からたぶん、直線距離で100メートルないと思いますよ。大聖堂だと100メートル以上ありますからね、ここは「聖堂の中にいるようなもんですよ」って言ったら、またニコーーッてされてね。(笑)ご主人もとっても喜んで。
 まあでも、「じゃあ何百メートルまでか」って言うのも変な話で、そこはもう「グラデーション理論」で、「神さまの生きておられる世界と、自分の生きている現場は直結だ」と思ってください。線の引きようもなく、すぐそこで、つながってる。

 お母様のご葬儀なさった息子さんが、そこにおられますけれども、つい先週、ここでご葬儀をいたしました。
 お母様、お棺の中で、洗礼を受けた時の白いベールをかぶっていたじゃないですか。「このベールをかぶせてほしい」っていう遺言どおりに、ちゃんとかぶっておられました。
 洗礼を受けたとき、真っ白なキリストを着る者となったお母様、洗礼式の中で「白い衣を受けなさい」と言って授けられたそのベールは、キリストの内に死んで、キリストと共に新たに生まれたしるしですから、天に生まれるときの先取りのしるしなんです。洗礼式と葬儀ミサはひとつです。さすがにミサのたびに使ったからか、少し黄ばんでおりましたけれども、今、お母様は、天上に生まれ出ていって、雲の峰もかくやというような、真っ白な輝きのキリストを着せてもらってるんですよ。
 それはもう、「すぐそこ」ですよ。・・・直結なんです。


【 参照 】(それぞれ、画像をクリックすると大きく表示されます)

※参考画像1:

青空と入道雲
多摩教会と入道雲
多摩の空と入道雲


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※参考画像2:

赤いスイカ1
赤いスイカ2
赤いスイカ3


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※参考画像3:

早朝の朝顔
お説教当日の朝顔
聖堂脇のステンドグラス



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2013年7月7日 (日) 録音/2013年7月12日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英