福音秘密工作員

【カトリック上野教会】

2017年3月5日四旬節第1主日
・ 第1朗読:創世記(創世記2・7-9、3・1-7)
・ 第2朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ5・12-19、または5・12、17-19)
・ 福音朗読:マタイによる福音(マタイ4・1-11)

【晴佐久神父様 説教】

 皆さん、ちゃんと頭に灰、受けました? 先週の灰の水曜日に、ミサに来られましたか(※1)? もし、四旬節に入ったのに、まだ受けてないって方は、このミサの後で、香部屋(こうべや)(※2)で灰をね、特別大サービスで、パラパラッと、かけますから。
 まっ、しるしですから、たとえ受けなくても、救われることに変わりはないんですけど、まさにその救いを「味わう」ためのしるしですから、やっぱり大切ですよ。・・・回心のしるし。原点に立ち返るしるし。私たち、本来は(ちり)でしたから (cf.創2:7) 。でも、神さまが、なんと、命あるものにしてくださっている。やがて、私たちは、ぜんぶ神さまに、この身をお返しして、永遠の命に生まれていく。灰からの復活ですよね。まあ、そういう原点に立ち返る恵みのときとして、灰を受けます。
 日ごろ、私たちが考えていること、悩んでいること、憧れていること、さまざまな活動、・・・み~んな、実は自分のことばっかりでしょう? 人のことを考えているような顔はしていても、結局、自分のことでしょ? まあ、ほとんどそうですよね。普段はそうでも、根本的には神さまが働いてくださっていることに信頼をおいて、この四旬節(※3)は、神さまのことを思います。静かな気持ちで、安心して、全面的に神さまに信頼する日々を歩んでいきます。
 ・・・やっぱり、灰を受けた方がいいですね。なかなか神さまのことを思いませんからね。灰の水曜日に受けなかった人、あとで、みんな、香部屋に来なさい。いっぱいかけてあげますよ。

 いつだったか、「神父さま、私のことを人一倍罪深いと思ってるでしょう?」って言った方がいてね。「バレたか・・・」って思いましたけど、(笑) 「なんでですか?」って聞いたら、「灰の式で、私には、他の人より多く灰をかけた」って。(笑) もちろん、そんなつもりはなかったんで、「いや、勘違いですよ」と訂正しましたけれども、一応、こうも付け加えました、「もし、罪の量と灰の量が比例するなら、バケツ一杯でも足りないよ」って。(笑)
 そりゃそうでしょう。みんな罪びとです。すべての人が、そもそも、灰にすぎないんです。誰かが人一倍罪深くて、誰かはそうでもないかっていうと、そういうもんじゃないですね。人間である以上みんな罪深いし、それはもう、量で測れる話じゃない。回心とは、灰にすぎないこの私を愛してくださっている、本当に善である神さまにのみ信頼して生きることですから、罪の量を減らすとか、そんな目先のこととも違うんです。・・・もっと、原点の話ですねえ。

 さっき、創世記を読みましたけれども(※4)、その原点に気づくヒントがありました。
(ヘビ)が、「これを食べたら、目が開けて、神のように善悪を知るものとなる」 (cf.創3:5) って言って、エバ(イブ)をだますわけですよね(※5)。これは言い得て妙です。というのは、善であるのは神だけですね。だから、本当に善であるっていうことを正しく判断して、すべてを善として生かしていくことができるのは、神だけのはずです。まさに、「善悪を知るものとなる」 (ibid.) ことが神の本質であり、人間に、おまえもそのような神のようになれるって言ってるわけです。
 実際、われわれ人間が善だの悪だの言いだすと、争いや混乱が起きますでしょ。人間の善悪は、非常に(かたよ)ってるからですね。人間の内には完全な善なんかないし、同じく完全な悪もない。なのに、みんな、「これが善だ、あれが悪だ」って決めつけてね、「私が善だ」と言い、「あいつが悪だ」と責めたてる。・・・実際、自分が「善」を行ってると思い込んでる人ほど、そのおかげで人が迷惑してることを知らなかったりするんですよね。いっぱい見かけますよ、そういうこと。誰かを「悪」だって責めているけれど、実はその誰かのほうがよっぽど善だったりすることもある。誰かどころか、自分自身を「悪」だと決めつけて苦しんでいることもある。いずれも、人間が、まるで神のように、「善」だの「悪」だのって振り回すから、おかしなことになる。
 まあ、「悪いことはやめましょう」「()いことをやりましょう」っていうのは、分かりやすいからね、簡単にそう言っちゃうんだけれども、四旬節は心を入れ替えるときですから、いつもの思い込みから離れるときですから、たまには善悪を超えた透明な世界に心を開いてほしいんです。普段、「いいことしなきゃ、善をやらなきゃ!」って無理してる人は、少し控えましょうよ。普段、「悪いことをやめさせよう、罪びとをこらしめよう!」って責めてばかりの人も、少し控えましょうよ。そして、いつも、「自分は悪だ、罪だ!」って思い続けている人も、少し控えましょうよ。
 ・・・なんか、そういう、いつもの日々とは違う、善悪を超えた世界の「静けさ」みたいなものを取り戻してほしい。灰にすぎない者として、謙遜に生きる。・・・四旬節は、そういう日々にしてほしい。

 で、そのヒントですけど、この、「木の実を食べたら、自分が裸であることを知った」 (cf.創2:6-7) っていうところ。二人は、神の顔を避けて、木の陰に隠れます。これは面白いですね。・・・だって、この二人、初めからずっと裸だったんですよ。でも、気にならなかった。なのに、それが「気になり始めた」っていう話なんですね。
 「裸」っていうのは、「自分そのまんま」ですね。自分を、ぜんぶさらけ出している。でも、楽園においては、恥ずかしくもなんともない。なぜなら、それが「自分」だから。「神がお造りになった私は、こういうものです」と。もちろん、弱いところもあるし、汚れたところもある。でも、それこそが「自分らしさ」なんですね。いいも悪いもない、そうでなければ「自分」じゃないんです。
 ところが、「そのまんま」でなんともなかった楽園から、失楽園すると、「このまんまの自分じゃダメだ」ってことになる。だから、「ここは汚いから隠そう」とか、「ここは欠けているから着飾ろう」とか、「ここは人から責められるかもしれないから、なんとかごまかそう」とか、そういうことをし始めた。これが失楽園です。まあ、これは、失楽園したからそうなったっていうより、そういうふうに思い込むのが失楽園だってことでしょう。これ、面白いですね。
 だから、楽園を取り戻したかったら、着込んだもの、脱いじゃえばいいんです。・・・ホントに脱がないでくださいよ。(笑) 服の話じゃない。「心に着込んでいるもの」の話。・・・脱いじゃえばいいんです。皆さんが、「私は弱い」と思っているところ、「私は隠したい」と思っているところ、それは、善悪を間違えてるからなんですよ。その弱さも汚れも、実は善でも悪でもない、そもそもの「私らしさ」なんであって、それをそのまんま出しても、何の問題もない。着飾って隠してみたところで、それは、実は、「私」じゃないわけですから。むしろ、欠けた者だ、悪い者だと思い込んで隠そうとすることが、悪なんです。
 皆さん、お化粧したり、立派な服を着たり、いろいろと隠すのが上手ですけど、たとえば初めっからあんまり隠してお見合いしても、意味がないですよね。やがて素顔を見られてがっかりされるくらいなら、最初っから素顔同士の方が安心じゃないですか? 余計なお世話?(笑)
 あんまり隠していると、もはや、自分ってなんなのかさえ、分かんなくなっちゃう。お互い、裸同士が一番仲良くなれますし。・・・なんかこう、温泉の露天風呂で、「いやいや~☺♨」って本音を語り合うみたいな、そういうのが一番気持ちいいのに、「こんな自分じゃダメだ」って思って自らを隠し始めた、それが失楽園だっていう創世記のお話、示唆に富んでいませんか?
 神さまがおつくりになったのは、「この私、そのまんま」なんですね。それを隠したり、覆ったり、飾ったりしたら、神さまがおつくりになった「そのまんま」が、消えちゃうんですよ。・・・いや、消えはしないけど、分かんなくなっくなっちゃう。たぶん「罪」って、そんなようなことだと思う。神さまは、この私を美しいものとして、本当に尊いものとして、ちゃんとおつくりになっているのに、それを、変な化粧をしたり、変なものを着込んだりして汚しているのは、自分自身なんですよ。「私のまんまでも、ま~ったく平気だ」っていう安心感を持って、神さまの前に裸で立ち、人々の前に堂々と自分自身であるっていうのが、気持ちよくないですかね。
 回心の時って、「努力して、もっと立派な自分になりましょう」っていう時というよりは、神さまが与えてくださったこの「私」という恵みを、本当にそのまんま受け止めて感謝して、そのまんまで人々と真っすぐに向かい合い、そして、そのまんまのあなたを受け止めるとき。・・・それが、神の国の到来、「楽園」の復活ってことでしょう。

 イエスさまは、失楽園している私たちを救うために来られました。
 40日間の荒れ野での誘惑で(※6)イエスさまが戦った「悪」っていうのも、そう思うと、「あっ、そういうことか!」って分かりますよ。
 悪の誘惑は、「そのまんまじゃダメだろ?」って言うんですよ。「パンが足りないだろ」と言うわけです (cf.マタイ4:3) (※7)。もちろん、おなかが空いているから、パンを食べたい。そういう欲求があるのは当然です。イエスさまも、空腹を覚えているわけですから。でも、そこで、その現実そのまんまを、み心として受け入れるのか、現実を欲望によって変えるのかは、決定的に違う。
 ・・・あの、皆さん、「欲求」と「欲望」が違うって知ってます? 「欲求」っていうのは、体が求める。「おなかが空いたから、何か食べたい」っていうのは「欲求」だけど、「あそこのパン屋の、無添加の、天然酵母の、あのクロワッサンが、食べたい」っていうのは、これ、「欲望」なんですね。「欲望」っていうのは、これはもう、あとから文化によって洗脳されたこと。われわれは、そういうふうに、まあ、コマーシャリズムとかで洗脳されて、それを欲しがるようにさせられてるんです。・・・「おまえの、そのままじゃ不幸せだ。だからこれを欲しろ」って思いこまされてるってこと。悲しいですね。
 「石をパンに変えろ」って、欲求を欲望に変えろってことです。たとえ変えられたとしても、それは本当はやっちゃいけないことなんですよ。欲望には限界がないから。おなかが空いたとき、なんであれ、感謝して食べればいいのに、「もっとこういうものを」「もっとああいうものを」って、果てしなく欲望に支配されていく。
 夕方のテレビなんか見たら、どのチャンネルも、すべて食べ物のことをやってますでしょ。夕飯時で視聴率取れるからでしょうけど、何百万という人が、よだれを垂らしながら画面を見つめて、「ああ、うまそうだな~」と洗脳されていく様子って、まさに失楽園。そこまでおいしくなくていいし、そこまで求めなくていいでしょう。
 でも、欲望の魔力は強烈ですから、一度知っちゃうと、「ああ、うまそうだな~。今度あの店に寄ろうかな」って思うわけですよ。そうした方が、消費が進んで経済もよくなるのかもしれない。でもなんか、ぼくら、おかしくなっていませんかね。その根本に、悪のささやきがあるんじゃないですか。「そのままじゃダメだ。不幸だ。おまえは何も持っていない。もっといいことがある。裸じゃだめだ。さあ、現実を覆い隠して、幸福を身にまとえ!」と。

 そうだ、それで思い出しましたけど、「一汁一菜でいい」っていう内容の本、はやってるのご存じ(※8)? 特に日本人なんかそうですけど、メインディッシュにこだわりすぎでしょ。何かメインに立派な料理がないと晩ご飯にならないって思い込まされ、旦那はそれを要求し、妻はそれに従おうと思って必死になってね。だけど、人類はもう何十万年と、シンプルな食事をしてきたわけですよ。まあ、せいぜいちょっと具だくさんな味噌汁を作って、ごはん炊けばもうそれで十分だし、あとはお新香と梅干しがあれば。そもそも、現代人は食べ過ぎでね、みんな、ちょっと重くなってますから、(笑) そういう意味でもね、その本、ぜひお勧めしますよ。それはもう、主婦を解放するんですね。家族がみんなで、これでいいじゃんって言えば。時間もできるし、余裕が生まれると会話も豊かになるし、健康にもいいし、安く済むし、慎ましやかで、ホントにもう、有り物でいいから、そこに本当の喜びを見つけましょうっていうね。

 悪魔は、「石をパンに変えろ」って言う (cf.マタイ4:3) 。現代社会って、そんな感じですよ。「この石、パンに変えられたらいいね」って、ついにテクノロジーは、石をパンに変え始めてるでしょ? 現に、エネルギーが足りない、このままじゃダメだ、ウランっていう石をエネルギーに変えようとかって、結局それで大災害が起こったりしてるって、これ、実話ですもんね。
 で、さらに、悪魔はイエスさまを高い山に連れて行って、繫栄しているすべてを見せて、「わたしにひれ伏すなら、これをぜんぶあげよう」って言う (cf.マタイ4:9) (※9)。ホントに愚かな誘惑です。なぜなら、神と共にあるなら、そんなもの、最初っから、ぜんぶ持っているからです。
 「持ってないだろ?」「そのまんまじゃ足りないだろ?」って、悪魔はそそのかすんですね。それに対して、イエスは、「もう、わたしはすべてを持っている。そんなもん、いらん。神に造られた今のこのわたしのまんまで十分だ。神の恵み以外に何もいらん。神に愛され、神と共にあり、神にのみ希望を置いて生きているこのわたしには、石をパンに変える必要もないし、全世界の繁栄を手にする必要も、さらっさらない」と答える。
 ・・・これは、「自由」ってことですよね。気持ちいい。四旬節の心として、そういう気持ち良さを求めたらいい。大事なのは、本当の気持ちよさなんです。

 だから、私の言い方だと、「禁欲」っていうのはおかしいんです。だいたい、禁欲すると、むしろストレスが溜まって、結局はそれが爆発して、前より悪くなるっていう・・・。リバウンドで、かえって太る、みたいなね。「禁欲」じゃなくて、「もっと本当の欲を持て」と、私は言いたい。半端な欲で終わってるから、ぼくらは失敗する。もっとなにか、神さまと共にある満ち足りた生活、みんなが裸で向かい合えるような真の自由、そういうものを求める欲を持つ。四旬節は、だから、まあ、つまらん欲望にこだわっているところから、「本当の欲望を持つ」っていう、そういう時期としましょうよ。
 ぼくらは、しょせん灰にすぎない。で、その「灰」に、神さまが命の息を吹き込んだって、今日の創世記にありました。「主なる神は、塵で人を造った」 (cf.創2:7) って。ぼくらは塵なんです。泥人形ですよ。でも、その鼻に、神さまがふ~っと息を吹き込んで、生きる者となっている(ibid.)。・・・なんという恵み! そんな一日があるだけで、もう十分じゃないですか? 泥人形だったのに、神の息を吹き込まれて、今日一日、私たちは食べ、飲み、語り、歩き、愛し合うことができる。命ある者として、神を賛美し、感謝し、共にいる喜びを、仮にほんの24時間でも過ごすことができるなら、あと何もいりませんっていうような、そんな清々しさが、四旬節の心だね。・・・気持ちいいでしょ?

 灰をかぶりましょう、もともとは塵だった者として。でも、神さまは、塵のままで終わらせることを望んでいない。この私を愛して、生み出して、今日も生かして、・・・どころか、主と共に永遠なるものにしてくださる。もう、感謝以外、言葉がない。
 ・・・皆さん、水曜に受けた額の塵、洗っちゃったみたいですけど、四旬節の間、ず~っと付けといたほうがいいんじゃないですか。(笑) テープかなんかでね、忘れないようにするために。
 灰の水曜日、帰りの電車の中で、前の人が自分の額をじ~っと、なんか不思議そうに見てるんで、「あっ!・・・😱」って気づいて、あわてて拭いたっていう話を聞きましたけど。そういう向かいの人もね、よく見たら額に灰が付いてたりしてね。どこぞの教会の帰りだったりして。・・・いいね、見知らぬ信者同士、互いに、静かに目礼するとかね。秘密工作員同士みたいに。

 ・・・最近、暗殺事件がありましたけど、どこかの国の秘密工作員は、よその国で暗殺したりする人たちですよね。それでいうなら、ぼくらだって、この世界に遣わされた工作員みたいなもんでしょう。「秘密」かどうかはともかく、遣わされてるんじゃないですか。コマーシャリズムと、消費主義と、半端な欲望に満ち満ちているこの世界に、天から遣わされている工作員。・・・キリスト者には、それくらいの自覚があってほしいね。でも、それは、暗殺するためじゃない。むしろ、死んでる人たちを復活させるため。そのような福音的使命を持って、この四旬節を生きる。
 今日、洗礼志願者になる人たちはね、そのような、秘密工作員になるんです。今日はその志願式(※10)ですからね。これからあなたを福音秘密工作員として教育する、と。やがて復活祭には、皆さんをそ~っと世に遣わすわけです。といっても、「私はキリスト教信者で~す! 私の言うことは正しいで~す!」なんてね、そんな目立つことはしない。秘密工作員は、謙遜に、そっとみんなの中に入っていって、とらわれている人たちを解放していく。苦しんでいる人たちに、真の希望を与えていく。
 ・・・いいねえ。そういう、・・・何ていうんでしょう、・・・「ミッション(mission)」ですか。神から与えられたミッション。・・・使命。しかも、どこぞの独裁者のミッションじゃない。天の父からのミッションですから、これを果たすことは最高の栄誉であり、で、また、神が味方ですから、必ず成功する。これはもう、われわれのね、「使命」です。

 おととい、柄谷行人(からたにこうじん)さん(※11)の講演会が上智大学であって、勉強してきました。
 私、ご本人とは、縁あって親しくさせていただいているんですよ。天下の柄谷行人と、講演会の後、四谷のメキシコ料理屋で一緒にしこたま飲んで、酔っ払い同士、四谷の交差点でひしと抱き合って、「また飲もう!」って。(笑) ・・・彼は、これから三カ月、アメリカの大学で教えるんで、「戻ってきたら、ぜひまた」って。・・・僭越(せんえつ)ながら、本当に気が合うんですよ。それはなぜか。お互いに、ミッションを生きているからです。この危機の時代に、普遍的な真理によって、世界をよりよいものにしていこうというミッションを自覚しているからなんですね。人類のうちにね、普遍主義的で、透明な宗教心が秘められてる。それを、明らかにすることで、原理主義同士の争いに満ちているこの世界を救おうというミッション。・・・いうなれば同志なんです。講演会も、「普遍宗教は(よみがえ)る」というタイトルでした(※12)。なんと魅力的なタイトルか。普遍宗教は、人類の歴史で常に甦って来ては、われわれを救うんです。
 「普遍宗教」っていうのは、いわば楽園回復宗教です。みんなが神の子として持てるものを分かち合い、愛し合い助け合って共に生きる、いわば「神の国」を取り戻す働きの事です。本来のイエスの教えがそうですけど、たとえば、弥陀の本願(※13)によってすべての人が救われるという親鸞さんの教えなんかも、普遍宗教です。
 かつて人類は、何十万年もの間、平等な楽園を生きていたんですけど、あるころから、「裸じゃダメだ」「それじゃ足りないだろ?」「そのまんまじゃ不幸せだろ」っていう悪魔のささやきに負けて、「もっと食べよう」、「もっと貯めよう」と、「もっと、もっと」の地獄を生み出してしまった。さらなる利益を求めて取り引きしたり、権力や暴力で人々を支配したり、貨幣で階級や貧富の差をつくりだしたり。そんな現実の中で、人類が本来楽園で持っていた、あの平等な恵みの世界を取り戻そうとするのが、普遍宗教です。
 「世界宗教」とは違うんですよ。普遍宗教が、帝国に取り込まれて堕落してしまったのが、世界宗教。純粋で、透明で、真に平等で・・・っていうのが、普遍宗教。もちろん、カトリックは、本来的に普遍宗教です。世界宗教になっちゃいましたけれども、本来的に、楽園を取り戻すものとしての普遍宗教・・・ですね。
 講演会で、こんな質問が出た。「普遍宗教は大事かもしれないけど、『宗教』っていう言葉は、もう、特に日本では、偏見を持たれているから、『いや、宗教は結構です』って思われちゃう。どんなに普遍的でも、誤解されないでしょうか」みたいな質問でした。まあ、それは確かに、われわれも経験することじゃないですか? 「この人、教会に誘いたいな~」と思っても、誘ったら、「えっ? いや、宗教はちょっと・・・😓」とかって言われちゃうんじゃないかって、遠慮しちゃう。今の日本では、宗教を特殊なもの、危険なものとして見られがちで、その真の透明性、普遍性が、なかなか語れないでいる。まあ、そういう現実があるからこその質問でしょうけど、柄谷さん、こう答えてました。
 「みんな、宗教が特殊だ、危険だってそう言うけれど、そんなみんなが信じている、たとえば資本主義なんて、もう、強烈に宗教ですよ。宗教はちょっと…っていう人には、あなたこそが宗教を信じてるんですよって言ってあげたらいい」
 こういうとこが、気が合うんですよ。私も同じことをよく入門講座でお話ししてますから。実際、そんなあなたの信じてる「資本主義教」や、「現代社会教」みたいなのが、本当にあなたを幸せにしてるなら、それでいいんだけれども、もし、行き詰まっているならば、本物の宗教を知ってほしいんです。すなわち、普遍宗教、・・・歴史を超え、民族を超えた、普遍的なる教え。人々を解放する力、純粋贈与の力、人間に本来的に備わっている、『そのまんま』の力を取り戻させる、そのような教えを知ってほしい。
 「宗教は嫌だ」と言う人に、「あなたこそ宗教だ」っていうこのセンスを、秘密工作員は、持っていていただきたい。そのような純粋さ、透明さをもって、見返りを求めずに人を救う使命感をもっていただきたい。その働きによって、とらわれているかわいそうな人たちを、本当に救っていくことができる。
 今から、洗礼志願式をいたしますけれども、神さまはやっぱり、その時代、その場所に、必要な人をちゃんと選んで、特別な力を注ぎます。自分では、「こんな私は、役に立たないだろう」「こんな使命は、私には無理だろう」、そう思うかもしれない。でもそれは、人間側の善悪の基準であって、そんなものは、むしろ役に立たないし、持ってるほうがじゃまになる。
 「この私こそが、神によって、特別にふさわしいものとして選ばれているんだ。自分では理解できないけれども、それを信じます」と、そういう信仰が、やっぱり、工作員には必要です。遣わすのは神ですから、つまり、志願兵じゃないんですよ。召集令状みたいなもんです。もう、神さまに召されてしまったんです。いやも応もない。内からあふれて来る霊的な力に突き動かされて、堂々と、「選ばれた私」として、この行き詰まった世界の中で、確信を持って生きていっていただきたい。
 四旬節の間、洗礼志願者のために、全世界のカトリック教会がお祈りいたします。歴史の大船に乗った気持ちで、この志願式に臨んでいただきたい。
 洗礼志願者と代父母(※14)の方は、前に進んで、横一列に並んでください。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます。)

※1:「皆さん、ちゃんと頭に灰、受けました? 先週の灰の水曜日に、ミサに来られましたか」
 この日、2017年3月5日(四旬節第1主日)の前の水曜日は、「灰の水曜日」に当たっており、ミサがあり、そのミサ中には、回心のしるしとして、灰の式が行われた。
 灰の式では、司祭が、「回心して福音を信じなさい」、または、「あなたは ちりであり、ちりに帰っていくのです」と唱えながら、一人ひとりの頭か額に、灰で十字のしるしをしたり、かけたりする。
******
(備考)
◎「灰の水曜日」
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 四旬節の最初の日。
 復活祭の46日前(日曜日を除くと40日前)の水曜日にあたる。
 この日、信者は前年の受難の主日(枝の主日)に祝福された枝を燃やしてできた灰を額や頭に受けて回心のしるしとする「灰の式」が行われる。灰は古代から悔い改めのしるしとして用いられてきた。
 初期のキリスト教もこの習慣を受け継ぎ、罪を犯した者が公に悔い改めを表すしるしとして、灰を頭や額に塗るようになった。信者がこの日のミサの中で灰を受けることは、11世紀末から始まった。
 この日から復活祭の準備期間である四旬節に入るに当たり、信者は灰の式の中で自らの行いを悔い改め、福音に従う生活を送るよう司祭から勧められる。(参考:『岩波キリスト教辞典』 岩波書店、2008)
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※2:「香部屋」(既出)
◎香部屋 (こうべや)
 典礼の準備をするための小さな部屋で、司祭や侍者などの奉仕者が、聖堂に入退堂しやすい場所に設置されている。典礼で用いる祭器具や、祭服、典礼書などを保管し、祭服を着用する際にも使われている。
 「香部屋」の名前は、元来、ミサの間に、香炉の種火を取り替えるために待者が出入りしたことから付けられた。
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※3:「四旬節」
◎「四旬節」 (しじゅんせつ)〈 英:Lent 〉 (>もう少し詳しい既出箇所
 この間、キリストの受難を思い巡らし、回心と節制、愛の行いを通して、キリストの復活を記念する「復活の主日」(復活祭)を準備するよう勧められている。
 元々は復活の主日(「春分の日」後、最初の満月の、次の日曜日)に先立つ40日間だったが、現在のカトリックの典礼では、灰の水曜日(復活祭の46日前)から、聖木曜日の「主の晩餐の夕べのミサ」直前(日没の午後6時〜7時)までとなり、さらにその間の主日(日曜日)を除くため、正確には37日と18〜19時間となった。
 典礼色は紫を用いる。
*******
★ 2017年の「四旬節」の例 ★ 〈2017年の「復活の主日」は4月13日(日)〉
(3月)

3月1日「灰の水曜日」3月31日(金・月末)
 ⇒ 31日間(日曜日を除くと27日間)・・・①
(4月)
4月1日(土)
4月13日(木)「主の晩餐の夕べのミサ」直前(日没の午後6時〜7時)
 ⇒ 13日間と18時間~19時間(日曜日を除くと10日間と18時間~19時間)・・・②
=====
(合計:2017年の「四旬節」)

3月1日「灰の水曜日」4月13日(木)「主の晩餐の夕べのミサ」直前 (日没の午後6時〜7時)
 ⇒ 44日間と18時~19時間( 日曜日を除くと37日間と18~19時間)・・・①+②
 以上が「
四旬節」の期間になる。 
(参考)
・ 『岩波キリスト教辞典』(岩波書店、2008)
・ 「四旬節 断食(大斎・小斎)とは?」(カトリック中央協議会)
・ 「典礼解説・四旬節」(カトリック中央協議会)ほか
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※4:「さっき、創世記を読みましたけれども」
この日、2017年3月5日(四旬節第1主日)の第1朗読。
 該当箇所は、以下のとおり。
  創世記 2章7~9節、3章1~7節
   〈小見出し:「天地の創造」1章1節~2章25節から抜粋、「蛇の誘惑」3章1~24節から抜粋〉
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※5:「蛇が、『これを食べたら、目が開けて、善悪を知るものとなる』 (cf.創3:5) って、エバ(イブ)をだますわけですよね」
===(聖書該当箇所)===
女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。
それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」 (創3:2-5/赤字引用者)
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※6:「40日間の荒れ野での誘惑で」
この日、2017年3月5日(四旬節第1主日)の福音朗読から。
 該当箇所は、以下のとおり。
  マタイによる福音4章1~11節
   〈小見出し:「誘惑を受ける」〉
===(聖書該当箇所)〔朗読用から〕===
〔そのとき、〕イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。 そして40日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。 (マタイ4:1-3a/赤字引用者)
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※7:「悪の誘惑は、「そのまんまじゃダメだろ?」って言うんですよ。「パンが足りないだろ」と言うわけです (cf.マタイ4:3)
===(聖書該当箇所)===
すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」 (マタイ4:3-4/赤字引用者)
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※8:「『一汁一菜でいい』っていう内容の本、はやってるのご存じ?」
 料理研究家で、フードプロデューサーの土井善晴(どい・よしはる)氏〈1957年2月8日~〉が提案し、話題になっている。
 子育てや仕事、ひとり暮らしなどで、食の大切さは分かっていても、「毎日の食事作りが大変だ」「負担だ」「おっくうだ」などという意見は多い。そんななかで、台所に立つ人のストレスをなくしたい、楽にしたいと、『一汁一菜でよいという提案』という本が書かれた。
 「夕食づくりが苦じゃなくなった「レシピに悩むことがなくなった」「料理作りで、子どもの相手をしてあげられる余裕ができた」「食事作りのストレスがなくなって、家事が楽しくなった」「プレッシャーから解放された」など、反響は大きい。(2017年3月6日~3/17現在、Amazonの「グルメ一般の本」カテゴリで、ベストセラー1位)
(参考)
・ 「土井善晴」(ウィキペディア)
・ 「忙しい主婦絶賛!土井善晴『一汁一菜でよいという提案』が話題 2017/01/11」(NAVERまとめ)
・ 「家庭料理の大きな世界 :『第9回 一汁一菜でよいという提案 2017/1/9」(ほぼ日刊イトイ新聞)
・ 「『一汁一菜でよいという提案』 土井善晴さんがたどりついた、毎日の料理をラクにする方法 2016/12/19」(KOKOCARA/生協の宅配パルシステム)
・ 「『毎日のごはんは“一汁一菜”で良い』土井善晴が語る、和食を守る道 2016/12/2」(Yahoo!ニュース)
・ 「一汁一菜でよいという提案 2016/10/22」(斉藤さんのブログ/個人ブログ)
******
・ 購入サイト: 『一汁一菜でよいという提案』グラフィック社 (2016/10/7)(Amazon)
・・・< 文中へ戻る

※9:「で、さらに、悪魔はイエスさまを高い山に連れて行って、繫栄しているすべてを見せて、『わたしにひれ伏すなら、これをぜんぶあげよう』って言う (cf.マタイ4:9)
===(聖書該当箇所)===
更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」 (マタイ4:8-10/赤字引用者)
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※10:「志願式」(>もう少し詳しい既出箇所
 「洗礼志願式」のこと。
 洗礼を望む人が、教えを学ぶ求道者の段階から、正式に洗礼を受ける意思を表明し、そのものとして教会に迎え入れられる儀式のこと。この儀式を経ると、求道者は「洗礼志願者」と呼ばれる。
 古来教会では、「恩恵に照らされた者」「資格ある者」「選ばれた者」などと呼ばれた。
 元来、四旬節が洗礼志願者の受洗準備期間として形成されたことから、洗礼志願式は四旬節の初めに行われるのが本来とされる。
 四旬節の間は、ミサの典礼と結ばれて、志願者への力づけ、清め、照らしを願う祈りが行われる。
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※11:「柄谷行人」 (既出)
◎柄谷 行人 (からたに こうじん、1941年8月6日-)
 日本の哲学者、思想家、文学者、文芸評論家。本名は、柄谷義男。兵庫県出身。
 1965年、東京大学経済学部卒業。1967年、同大学大学院英文学修士課程修了。1969年、『〈意識〉と〈自然〉 漱石試論』で、第12回群像新人文学賞を受賞後、文芸評論家として出発。イエール大学客員教授、法政大教授、近畿大教授、コロンビア大客員教授などを歴任し、批評誌『季刊思潮』『批評空間』を創刊。『マルクスその可能性の中心』(1978年/亀井勝一郎賞)、『坂口安吾と中上健次』(1996年/伊藤整文学賞)、『定本 柄谷行人集』全5巻(岩波書店、2004年)、『世界共和国へ』(岩波新書、2006年)、『憲法の無意識』(岩波新書、2016)、「普遍宗教は甦る」(必携保存版『世界三大宗教』文芸春秋季刊冬号、2016年)、『柄谷行人講演集成1995-2015思想的地震』(ちくま学芸文庫、2017年)など著書、参考文献など多数。
 昨年(2016年)11月4日には、カトリック上野教会で、「憲法9条と『神の国』」と題する講演会もも開かれた。
(参考)
・ 「柄谷行人」(公式ウェブサイト)
・ 「柄谷行人」(ウィキペディア)
・ 「柄谷行人/著者ページ」(amazon)
・ 「『憲法9条』を巡って意義問い直す柄谷行人の刺激的な議論(『西日本新聞』2016/7/1 論壇時評)
・ 「本来の楽園の高次の回復」(「福音の村」2016/4/24説教>この辺~)
・ 「天国のパレードを目指して」(「福音の村」2016/10/9説教>この辺~)
・ 「憲法9条と神の国」(「福音の村」2016/11/6説教>この辺~)など
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※12:「講演会も、『普遍宗教は甦る』というタイトルでした」
 2016年3月3日(金)18時半開演で行われた講演会。
 = 柄谷行人 講演会 =
 題目:「普遍宗教は甦る」
 主催:上智大学教育イノベーションプログラム
 共催:上智大学 文学部 哲学科
 場所:上智大学
(参考)
 ・ 〔pdfファイル〕 講演会チラシ
 ・ 「普遍宗教は甦る」(必携保存版『世界三大宗教』文芸春秋季刊冬号、2016年)
    > 2017年3月6日現在、Amazon楽天ブックスでは売り切れ状態。
    > 電子版のAmazon Kindle楽天koboなどでは販売されていた。
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※13:「弥陀の本願」 (既出)
 「本願」というのは、仏教において、仏や菩薩が過去において立てた誓願(約束、宿願)。人々を救済しようとの根本の願い。
 浄土真宗における「弥陀の本願」とは、阿弥陀如来の「業(ごう)にまみれた、煩悩に苦しむ衆生すべてを救いたい」という願い。
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※14:「代父母」 (既出)
◎代父母  〔ラテン語〕 patrinus, matrinus 〔英語〕 godfather, godmother
 「代父母(だいふぼ)」〔代親(だいしん)ともいう〕
  -「代父(だいふ)」は、代親のうちの男性。「代母(だいぼ)」は女性。
 キリスト教の伝統的教派において、受洗者の洗礼式に立ち会い、神に対する契約の証人となる者。教会共同体を代表して受洗者の世話にあたる。また、受洗者の生活や信仰について、教会に証言する証人でもあり、信仰生活にとっての案内役でもある。
 男性の場合は代父、女性の場合は代母、また、被後見人(受洗者)は代子という。通常、受洗者一人に対し、一人の代父、または代母がつく。受洗者が男性の場合は代父が、女性の場合は代母がつくのが一般的である。
 求道者を教会に紹介した者が代父母になることが望ましいが、他の適任者が求道者によって選ばれる場合もある。
 洗礼志願式では、志願者の意志を証言し、洗礼式の際には立ち会う。堅信式の代父母も本来同一人が務めることが望ましい。
 代父母制度は、入信制度の成立と共に古く、受洗者一人ひとりと教会共同体を結びつける貴重な役割を担っている。
(参考)
・ 「代父母」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008年)
・ 「代父母」(ウィキペディア)
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2017年3月5日(日) 録音/2017年3月17日掲載
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