もうチョット!

【カトリック上野教会】

2016年12月11日 待降節第3主日
・ 第1朗読:イザヤの預言:(イザヤ35・1-6a、10)
・ 第2朗読:使徒ヤコブの手紙(ヤコブ5・7-10)
・ 福音朗読:マタイによる福音(マタイ11・2-11)

【晴佐久神父様 説教】

 「喜びの主日」(※1)ですから、喜びの説教をいたしましょう。
 待降節第3主日、すなわち、待つ季節の半ばごろに、この「喜びの主日」があります。「この、現実の、待つ日々こそが喜びなんだ」ということを忘れないために。
 待っている間って、なんだか疲れちゃうってこと、あるじゃないですか。「これ以上待つのは、もう無理なんじゃないか」とか、「待っても結局は、無駄なんじゃないか」とか、「こんなに待ったのに、ちっとも喜びが訪れないじゃないか」って思っちゃうことがあります。そんなときにこそ、「いいや、この待ってる時こそが恵みの時、大事な時なんであって、待ち続けていれば、必ず喜びの日が来る」っていう信仰が大事です。
 主を待つ待降節の途中でね、それを信じ、希望を新たにするために、「喜びの主日」というのを用意して、「だいじょうぶだ! 負けるな!」ってね、みんなを励ます。・・・そういう主日ですね。
 だから、待降節の祭服は紫色ですけれど、「喜びの主日」には、もうちょっと明るい色の、バラ色の祭服(※2)を着たりする習慣があります。私、見たことありますよ。最近見かけなくなりましたけど、古い教会に行くと、まだあったりするんです。今まで赴任した教会には見当たらなかったんですけど、上野にあるかなって思ったら、やっぱりなかった。一度、あのバラ色、着たいんですけどね。(笑) 私、似合うと思うんですけど。(笑)
 とはいえ、見た目の事じゃない。私が希望の福音を語る者であれば、似合うっていう意味ですよ。私は、その希望をこそ語りたい。バラ色が似合うものでありたい。まあ、こうして説教で、「バラ色の祭服、いいな~💕」なんて言ってると、どっからか出てきたりすることもあるんで、(笑) ちゃんと希望を語り続けていれば、いつかは着れるだろうと思ってますけど。
 皆さんも、たぶん見たことないでしょ? ピンク色っていうかね、ローズ系のホントにきれいな色で、ちょっと着るには照れくさい感じですけど、「もうすぐ喜びの時が来るんだ!」ってことを忘れないようにする色、神さまに励ましていただく主日の色です。

 第1朗読(※3)のイザヤの預言も、「喜び」「喜び」って、喜びでいっぱいでしたでしょ。七つも出てくるんですよ、今日の朗読だと。
 「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ」(イザヤ35:1)とか、「砂漠よ、喜び、花を咲かせよ」(イザヤ35:2)とか、「大いに喜んで、声をあげよ」(イザヤ35:2) とか、喜べ、喜べって言ってるんです。後半にも、出てきますね。「口の利けなかった人が喜び歌う」(イザヤ35:6)、「とこしえの喜びを先頭に立てて 喜び歌いつつシオンに帰り着く」(イザヤ35:10)とかね。そして、「喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る」(イザヤ35:10)。・・・美しいイザヤの預言です。
 で、これは予言でもありますから、「これから(・ ・ ・ ・)、喜びの日が来るよ」って言ってるんでしょ。まだ来たわけじゃないけど、「これから喜びの日が来るよ。だから、喜べ」って言ってるんです。・・・ここが大事なんじゃないですか? 「喜びはこれから来るにしても、今はまだ悲しい」じゃなくて、「今は悲しい現実でも、これから喜びの日が来る。だから、もう、今から喜ぼう」。・・・「先取り」ってやつですね。
 喜びの主日に、クリスマスはまだだけれども、もう来たも同然っていう思いで、ワクワクして喜ぶ。それは、神の国の到来をワクワクして待つっていうのと同じです。
 「やがて再び、イエスさまが、神の国の完成の恵みの日に来られて、すべてを完成させ、すべての人を救ってくださる、そんな喜びの日が来る。その時はもう涙もない、苦しみもない、争いもない。そんな日がホントに来る。そして、それはもう始まっている。完成はしていないけど、完成し始めている。だから、今、完成の喜びを先取りして喜ぼう。何もわざわざ、悩みの日を引き延ばす必要はない。何もわざわざ、悲しみ続ける必要もない。悲しむより喜んだ方が得でしょう? だったら、先に喜び始めちゃいましょう」っていう、そういう信仰ですね、神の国の到来でのしるしである、キリスト教の信仰です。「もう、現実に、喜びが誕生した!」っていう。

 だから、・・・だからこそ、「忍耐が必要だ」ってことですね。これは、第2朗読(※4)です。
 「農夫は、雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つ」(cf.ヤコブ5:7)、・・・おっしゃるとおりです。だいたい、農業っていうのは忍耐ですよね。草木って急には育ちませんから。少しずつ、少しずつ、大きくなるんです。当然、忍耐が必要なわけです。
 「昨日よりは今日の方が、ちょっと実が大きくなっている」と、そう信じて、待ち続ける。「昨日種を植えたら、朝には木が生えて、ミカンがいっぱい()りました」、なんてことはないし、たとえそうなったとしても、楽っちゃ楽かもしれないけど、それが人生かっていうと、そういうもんじゃないですね。
 「だんだん、大きくなる」「少しずつ、もたらされる」、そこに、何かとても大事な秘密が隠されてるわけでしょう。その間には当然、嫌なこともあるけれども、でも、着実に、着実に、実りに向かっている。「この、『向かっている途中』ってのが、やっぱり恵みの日々なんだ。だから負けるな。忍耐を忘れるな」と、そういうことでしょう。
 子育てなんて、まさにそうですよね。「まんまカフェ」の話を、先週いたしましたけれども。(※5)
 そう、ここで宣伝させてください。12月22日の木曜日、「まんまカフェ」のクリスマス会です。子育てで悩んでいるお母さん、孤立しているお母さんがいたら、声を掛けてあげてください。・・・門の外にチラシが貼ってあったでしょう? ドド~ンと、いっぱい並べて貼ってあったはず。あれは、「本気だぞ!」っていうね、そういうメッセージです。「うちはやるよ」と、「半端なことはしないよ」と、「ホントに来てくださいよ」と、そういう熱い思いを表してるわけですね。何十枚ものチラシを、教会の外にズラッと並べて貼りました。でもそれは、お母さん方に、特に、苦しんでいるお母さん方に希望を持ってもらいたいからです。
 子育ても大変、この世を生きていくのは試練の連続、でも、「だいじょうぶ、必ず良くなる」「信じて! 今が勝負どころだから」「一日、一日、助け合ってやっていこうよ!」、そう言い合う仲間たちで、一緒にご飯を食べて、助け合って、福音を聴いて、「信じて、希望を持って、なんとか生きていこうよ!」と、そう励ましたいわけです。
 人は弱いです。うまくいかないときは、「ああ、もう無理だ・・・。こんなことしてて、何になるんだろう。もうダメかもしれない・・・」っていうような悪の誘惑というか、恐れのささやきが、お母さん方の耳元でささやきます。そんなとき、一人でいてはいけません。希望を持ち続ける仲間が必要です。

 先週のミサの後、午後には、中国語ミサ(※6)でも説教もしたんですよ。中国語はしゃべりませんでしたけど。(笑) 通訳の人が、がんばってくれたんですけど、困ってましたよ。私の説教なんて、思い付きでしゃべるだけですから。(笑) 苦労しながらも、立派に通訳してくれました。おかげで評判よくって、これからも時々お話しすることになりました。
 そのとき、たまたま、目の前におなかの大きなお母さんがいらしたんです。だから、さっそくそのことをお話ししました。「お母さん、子どもが生まれるの、ホントに楽しみでしょう? 毎日大変でしょうけど、生まれるのが楽しみだから、なんとかがんばってやっていける。それが、まさに『待つ』喜びなんですよ」って。
 でもそうでしょう? 「子どもが欲しい」って祈ったら、神さまが「そうか。じゃあ、明日授けよう」っていって翌日生まれるんじゃ、あんまり喜べないでしょ。なんか最近は、遺伝子をいじったりして、「デザイナーベビー」(※7)でしたっけ? 「髪は何色で、鼻が高くて」とか、生まれてくる子を選べる世の中になりつつある。・・・安易と言うか、危険ですよね。それって、なんかこう、子どもは「神から授かるもの」じゃなくって、「人間が選んで買ってくるもの」みないな感じしません?
 そのうち、夫が「子どもが欲しいな」って言うと、妻が「じゃあ、今日、子ども買ってくるね~」って、(笑) スーパーの冷凍ベビーコーナーで、「あら、この子かわいいわ♪」とか目にとめて、「安いから、今日はこれにしときましょう」って選んで、家に帰って電子レンジでチーンってあっためたら、「おぎゃ~ 。゚・(>Д<)・゚。」なんてね。(会衆席から「ヤダ~」と言う声) ・・・「ヤダ~」って言われても、(笑)もうそういう時代が来てるんじゃないですか? だけど、それは確かに楽で、忍耐もしないで済むかもしれないけれど、それでは決して、本当の喜びを味わえない。
 仮に、その子が、自分の思ったとおりの子どもだったとしましょう。「ああ、いい買い物した。なんてかわいい子どもでしょう♡」って、・・・でも、昨日までいなかったんですよ。今日、急に子どもが現れて、・・・それで、愛が生まれますか?
 そんなの、そのうち飽きて、「やっぱり、この子ちょっと違ったわ・・・」って、ゴミ箱に捨てて、別の子を買いに行くって話になるんじゃないですか? 当然そうなりますよ。
 でも、もしも、十月十日(とつきとおか)おなかを痛めて、つらい日々を夫婦で乗り越え、つわりのとき苦しんだりしてね、でも、どうしてもこの子を産みたいと願って、陣痛を経験するならば、まさに「おなかを痛めたかわいいわが子」でしょ? それはもう、「どんな子がいい」とか、「こんな子はいやだ」とか、そういうこと以前の、愛の本質。「神から、『この子』を授かったことを、私は喜ぶ」。
 十カ月は長いと思うかもしれないけれど、でも、その子が生まれてくるまでの、ワクワクしながら待つ、その気持ち。いろいろと大変だけれども、それを忍耐しするからこそ、喜びの日がやってくる。・・・これはやっぱり、「途中が大事」ってことじゃないですか?
 子育て自体、そうですもんね。だんだん大きくなっていくからいいんであって、いくら早く育ってほしい、立派になってほしいからといって、仮に、「おぎゃ~」って生まれた翌朝、もう二十歳(はたち)の青年になってたらヤでしょ? 「あら、かわいいわね~♡」って抱いたのに、翌朝には立派な青年になってて、「お母さん、一晩育てていただいて、ありがとうございました」、(笑)「これからは私、自分で生きてまいりますから、ご心配なく」っていうんじゃねえ。・・・つまらないですよね。
 もちろん、子育て、大変ですよ。心つぶれるような思いの日もあるでしょう。「なんでこんなに大変な思いをしなければならないのか・・・」って、投げ出したいような気持ちになることだってある。でも、その育っていくプロセス、・・・途中が、やっぱり素晴らしい。いつの日か、「あのつらい時があったからこそ」っていう日が必ず来るんだから。
 時には、「喜びの主日」を頂いて、励まされて、「もうすぐなんだ!」っていう希望を新たにしましょう。もう、その兆候は表れてるんだから。試練は、「もうすぐだ!」っていう陣痛なんだから。

 こうして、教会の日常を当たり前のように生きてますけれども、たとえば、こうしてミサがあるだけでも、もう「兆候」なんですよ、神の国の完成の。・・・今日もこうして、福音が語られ、秘跡が授けられているじゃないですか、現実に。これはもう、神の国が完成する直前だってことなんですよ。まさしく、洗者ヨハネなんかからすれば、そうでしょう。
 今日の福音書ですけど、洗者ヨハネは、もう殺されようとしてるんですね、これ(※8)。「おれはもう、明日首をはねられるかもしれない」っていう時になって、「このままじゃあ、死ぬに死ねるか!」と思ってるんです。彼は、人生を懸けて求めていたメシア、救い主、その方の到来を見るまでは、死ぬに死ねないと思ってるから。
 ですから、彼は、牢からひそかに、イエスに使いを送りました。
 「イエスさま、あなたがメシアなんですか? 私は、あなたがそうだとしか思えないんだけれども、あなたの口から教えてもらいたい。あなたは本当に、来るべき方メシア、救い主なんですか?」
 まあ、ヨハネとイエスは親友みたいなもんですし、お互いある意味、よく分かってるんですね、ヨハネはイエスのことを、イエスもヨハネのことを、よく分かっている。だけど、「イエスが救い主かどうか」っていう一点、そこを確かめないうちは、もうこれ、「死ぬに死ねない」っていう気持ちなんです。・・・ヨハネにしてみれば、首はねられる直前ですからね、これ。必死なんです。なんとしても弟子たちを遣わして、「なんとしても聞いてきてくれ」と。
 ところがイエスは、「はいそうです。わたしがメシアです」なんて言わない。仮に言ったところで、それは本人がそう主張したっていうだけですし、「そうはいっても、ホントにそうなのか・・・?」って、ヨハネはやっぱり不安になるんじゃないでしょうかね。
 イエスの答えは面白いです。
 「わたしがメシアかどうかは、起こっている出来事を見ればわかる。その出来事をヨハネに伝えなさい。見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、病気の人が清められ、聞こえない人は聞こえ、死んだ者は生き返り、そして、苦しんでいる人、弱っている人、本当に無力の中で叫び声を上げているような人に神の愛の福音が告げ知らされている。帰って、彼にそう言え。そう言えば、あいつなら分かる」(cf.マタイ11:4-6)
 ヨハネはその答えを聞いて、号泣(ごうきゅう)したんじゃないですか? 「やっぱりそうだったか!」と。「救い主は、ついに来たんだ。神の国が始まったんだ。もうだいじょうぶだ。おれは、本物の救い主の準備をしていたんだ。なんとありがたいことか! ・・・もうこれで、死ぬに死ねる」
 われわれ、新約を生きる者は幸いです。本物の救い主を知り、すべての人を救う福音を聞き、こうして主の復活を祝ってミサに集う。旧約の時代にはなかったこと、ヨハネには体験できなかったことです。
 子育てで苦しんでいる一人のお母さんに、私は、新約の福音を語ります。
 「まんまカフェ」で仲間に出会って、福音に出合って、「神の国の完成の日は、もうすぐなんだ。子育ては大変だけれども、この日々こそが、私の生きる喜びそのものなんだ」、そう気づいてくれたら、どんなにいいか。・・・忍耐、希望、「あとチョット!」ってやつですよ。

 今晩は、グランプリファイナルのフリー(※9)。テレビにかじりついて、ゆづ様(羽生結弦選手)を応援したいと。(笑)
 あの、でも、皆さん笑いますけどね、彼の今回のエキシビションのプログラム、見ました? あれ、見てくださいね、YouTubeにのってますから(※10)。パソコンいじれない人、お孫さんにでも頼んで、「羽生結弦 NHK杯 2016 エキシビション」と入れれば出てきますから、動画が。
 サンサーンスの「白鳥」に合わせて、エキシビションですから、自由に滑ってるわけですけど。・・・あれを「芸術」っていうんじゃないですかねえ。目頭熱くなるような美しいプログラムですよ。サンサーンスの「白鳥」。・・・いい曲ですよね。あれに合わせて、羽生結弦が白鳥になって、舞うんです。・・・ビックリですよ。スケートっていうものに秘められた可能性を開いたというか、こういうことができるんだから、ホントに人間って素晴らしいなあと思う、そういうプログラムです。世界一の技術を持った人に、世界一のアーティスティックなセンスも与えられてこそ可能な、奇跡の実現ですから。スケート旧約時代の人は、これを見ることができなかったんです・・・って、なんでこんなに宣伝してるのか、(笑) 分かりませんけど、ともかく、今晩見てくださいよ。励まされますよ。
 というのは、あの人、2週間前のNHK杯のとき、冒頭の4回転ループ、うまくいかなかったんですね。そのとき、滑り終わった直後に、苦笑いしながら、自分の顔の前で親指と人差し指を近づけて、こうやったんです(笑)、「もうチョット!」(※11)って。
 今や彼は、もうライバルがいませんから、自分がライバルです。あとは自分のプログラムをどれだけ完成に近づけるかっていうことにしか興味がない。それが、「あとチョットなんだ」っていうことですが、そのとき、指と指の間が、3センチくらい離れてた。
 ところが、おとといのショート、ご覧になりました? 4回転ループ、ちゃんと降りたんだけれど、着氷がちょっと乱れた。で、今季最高得点を出しているんだけれども、滑り終えた直後、苦笑いしながらやっぱり同じ仕草をしたんですよ。・・・「もうチョット!」って。(笑) でも、今度は指の間が、3ミリくらいになってました。
 だけどね、私、思うんだけど、あの人、その指をくっつけること、ないですよ。彼に完成はないから。仮に「もうこれでいい!」って満足できる演技をしたとしても、一週間後には、次のプログラムに向けて挑戦し始めているでしょう。それが彼の魅力ですし、それが希望ってことです。
 「もうチョット!」を目指し続けるっていう、あれは楽しそうでいいね。励まされるなあ。本人は大変でしょうけどね。見てる方はこたつか何かで、の~んびり見ているわけですけれど、われわれも、この「喜びの主日」に励まされて、諦めないで、挑戦を続けましょうよ。
 「・・・もうチョット!」って・・・!


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます。)

※1:「喜びの主日」
 待降節は、「愛と喜びに包まれた待望の時」(『典礼暦年に関する一般原則』39)。
 特に、その第3主日は「喜びの主日」(「ガウデーテの日曜日」Gaudete Sunday)と呼ばれ、救い主が、もうすぐそこまで来ておられるという、待ちきれないような喜びを表している。
 典礼色も、通常、待降節で使う紫色ではなく、バラ色を使うこともできる。
 ミサの始まりの「入祭唱」も、「主にあっていつも喜べ(Gaudete in Domino semper)。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる」(フィリ4・4-5)の言葉が選ばれ、聖書の朗読箇所も、救い主到来の喜びを告げている。
(参考)
・ 日本カトリック典礼委員会編(2004) 『典礼暦年に関する一般原則』 カトリック中央協議会
・ 「C年 待降節第3主日(「教会カレンダー」>ラウダーテ〔現在A年ですが、C年がより参考になりました〕
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※2:「バラ色の祭服」
 下の画像は、昨年(2015年)12月13日の喜びの主日、ローマのラテラン大聖堂における教皇フランシスコのミサから。

 ☆4枚の画像がスライドショーになっています。画像にカーソルを合わせると、矢印が表示されますので、ご利用ください。
 そのほか、いろいろな「バラ色の祭服」は、>こちらをご覧ください。
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※3:「第1朗読」
この日、2016年12月11日(待降節第3主日)の第1朗読箇所は、以下のとおり。
 イザヤの預言35章1~6a、10節
  〈小見出し:「栄光の回復」35章1~10節から抜粋〉
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※4:「第2朗読」
この日、2016年12月11日(待降節第3主日)の第2朗読箇所は、以下のとおり。
 使徒ヤコブの手紙5章7~10節
  〈小見出し:「忍耐と祈り」5章7~20節から抜粋〉
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※5:「『まんまカフェ』の話を、先週いたしましたけれども」
 先週のお説教をご参照ください。
  「安心の涙の予感」(「福音の村」2016/12/4説教)のこの辺からです。
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※6:「中国語ミサ」
 カトリック上野教会には、「イエズス会中国センター」というセンターがあり、井上潔神父さまを所長として、ロバート・ディーターズ神父さま、山岡三治神父さま(お三方ともイエズス会)が協力されている。
 中国語のミサは、日曜日、13時半から捧げられている。
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※7:「デザイナーベビー」
 受精卵の段階で遺伝子操作を行なうなどして、親が望む外見や体力・知力等を持たせて生まれた赤ちゃん。親に好きなようにデザインされた赤ちゃんのようであるために、そう呼ばれている。1987年に体外受精が可能になったため、現実味が出てきた。
 しかし、子どもが特定の性質を持つように事前に遺伝子を設計することは、技術的にも倫理的にも強く問題視されている。
(参照)
・ 「デザイナーベビー」(ウィキペディア)
・ 「デザイナーベビーに関するトピックス 2013/10/29~2016/10/18」(朝日新聞DIGITAL)
・ 「デザイナー・ベビー技術と自分自身であることの大切さ 2013/1/13」(精神文化学会
・ 「デザイナーベビーの問題点」(HAPPYエンジョイ・ライフ/情報サイト)など
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※8:「洗者ヨハネは、もう殺されようとしてるんですね、これ」
この日、2016年12月11日(待降節第3主日)の福音朗読箇所から。
 朗読箇所は、以下のとおり。
  マタイによる福音11章2~11節
  〈小見出し:「洗礼者ヨハネとイエス」11章2~19節から抜粋〉
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※9:「今晩は、グランプリファイナルのフリー」
 2016年12月9日(金)から、11日(日)まで、フィギュアスケートのグランプリシリーズ6戦を勝ち抜いた世界トップ6による世界一決定戦、「ISUグランプリファイナル」が、フランスのマルセイユで開催された。羽生結弦選手は、男女シングルを通じて史上初の4連覇達成。
 9日(金)は男子ショート、10日(土)は女子ショート、11日(日)は男女フリーとエキシビションが行われた。
(参考)
・ 「グランプリファイナル マルセイユ」(テレビ朝日
・ 「羽生4連覇、宮原は銀メダル フィギュアGPファイナル 2016/12/11」(朝日新聞DIGITAL) など
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※10:「彼の今回のエキシビションのプログラム、見ました? あれ、見てくださいね、YouTubeにのってますから」
 YouTubeにはたくさんアップされていますが、その中から。
 ・ 「YUZURU HANYU EX (Swan) GRAN PRIX JAPAN 2016」(YouTube)
 他、NHK提供の動画も美しいです。
 ・ 「2016NHK杯フィギュア 動画」〔下の方に「※エキシビション」とありますので、そこからご覧ください〕(NHK)
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※11:「もうチョット!」

(スライドショーではありません)
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2016年12月11日(日) 録音/2016年12月22日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英